75回クルーズ2つめの寄港地ペルーでは20日におりづるプロジェクトの交流ツアーを行いました。
今回の交流先は3カ所。ビジャ・エルサルバドルの人権活動団体アレナ・イ・エステラス、サン・ボルハ区、そしてペルー日系協会です。
午前は全員でノーベル平和賞にノミネートされた街、ビジャ・エルサルバドルを訪問し、町並みを見学してからピースボートと関係の深い現地の人権活動団体、アレナ・イ・エステラスで交流をしました。
今回はこのビジャ・エルサルバドルでの交流の様子を報告します。
ビジャ・エルサルバドルはカヤオ港から車で1時間程度のところにあります。途中には海岸沿いの美しい公園などが建設されている地域もありますが、近づいていくにつれ砂っぽく、また貧しくなっていくのが分かります。街についてみると中心街にはコンクリートの建物があるものの、全体的には貧しいスラム街であり、山肌に建っている家々には電気が通っていないため木材に電線を無理矢理引っ張ってきて電気を使っているとのことでした。
この街が出来たのは40年前、1971年。
リマ市内で起きた事件をきっかけに貧困層が富裕層の私有地を占拠するという出来事が起こりました。国は軍を使って貧困層を追い出しました。そして追い出された貧困層は当時何もない砂漠地帯であったこの土地にゴザを敷いて住み始め、次第に木材などを使って家を作っていきました。
このビジャ・エルサルバドルは、平和都市として有名な街でもあります。独自の住民主導の街作りが有名で1985年にはローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が訪問、翌年にはノーベル平和賞にノミネートされました。1987年「平和メッセンジャーの街」と宣言され、1989年には平和市長会議にも登録しています。
1980~90年代のテロリズム時代には左翼ゲリラ組織の標的となりマリア・エレナ・モヤノさんをはじめ多くのリーダーが暗殺されるなど、恐怖の時代が続きました。
街の高台にあるお墓。ここには左翼ゲリラ組織に暗殺されたマリア・エレナ・モヤノさんも埋葬されている。
交流したのはこのテロ時代の話を劇などにして活動している人権活動団体、アレナ・イ・エステラスです。
写真左の女性がこの組織の代表であり、水先案内人であるアナ・ソフィアさん
水先案内人で核軍縮教育家のキャスリン・サリバンさんもツアーに同行してくださいました。
現地の子どもたちと交流するキャスリン・サリバンさん
ピースボートからは広島で14歳の時に被爆した原口貞夫さんに証言をしていただきました。アレナ・イ・エステラスの子ども達は十代前半が多かったですが、被爆者の証言を聞くのは初めてのようでとても熱心でした。
原爆投下当時の写真を見ながら熱心に証言を聞く現地の子どもたち
多くの質問が出ましたが、印象的だったのは「原爆でめちゃくちゃになったのに、どうやって復興したのですか?」という質問です。いわゆる「貧困」地域に住む彼らにとっての一番の関心はどのように復興したのか、ということでした。原爆投下の経験は彼らが復興していくモデルケースと捉えられたのです。この視点が私たちおりづるメンバーにとっては非常に新しいものでした。
「私たちもこれからも人権活動に力を注いでいくので、皆さんもがんばってください」という子ども達のメッセージに大変な刺激を受けた交流でした。
おりづる参加被爆者の皆さんからは、「子どもたちがあんなにしっかりと自分の未来を見つめていて、そして熱心に活動していることに驚いた」や「自分が育った原爆スラムと情景が重なり辛い」などの感想があがりました。
「核廃絶」というテーマが貧困や暴力というテーマと出会う意義の大きな交流でした。
(おりづるプロジェクトサポートスタッフ 坂口理香)
この記事へのコメントはありません。