1.ヒバクシャ証言の航海

第6回おりづる参加被爆者紹介(広島編)

第6回「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」が出航する7月18日まで、残り10日ほどとなりました!本日は広島被爆の参加被爆者のみなさんを、被爆経験の要約とともに紹介いたします。

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壷井進さん

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広島被爆 1928.7.17生まれ 被爆当時17歳

現在の平和公園には、もともとたくさんの家があり、住みやすい町だった。8月6日の朝、爆心地から4.5km離れた工場で被爆。ピカッと光ってドーンと大きな爆発音。工場から大火災の中を学校に戻る途中、衣服がぼろぼろの避難者を多く見た。大やけどをして「水をください」という婦人の訴えに答えられなかったことに今も罪悪感を感じている。翌日帰宅したときに、母が亡くなっているところを発見。数日後、高熱を発症し約40日間入院。長い間被爆体験を語り継ぐ気にならなかったが、国連での平和行進に参加する市民の様子や差別体験を克服しようとする在日朝鮮人の姿を見て感激し、考えを変えた。多くの生徒、市民が傷つき亡くなったあの悲劇を繰り返さないためにも頑張りたい。

淺海頼子さん

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広島被爆 1928.11.17生まれ 被爆当時16歳

当時、広島の逓信病院に学徒動員で勤務していたが、8月6日は休みの日で爆心地から2km離れた自宅にいた。家に入った瞬間に爆風で吹き飛ばされ、母親はガラスの破片で血だらけになっていた。母親と弟二人と着のみ着ままで避難し、途中竹藪で休んでいるときに黒い雨にうたれた。知人宅に身を寄せ、妹を捜索。化膿したやけどに苦しむ弟や妹の看病を続け、終戦を迎える。焼け跡にバラックで家を作り家族で過ごした。食糧難にも苦しんだが、弟も九死に一生を得て現在リンパがんの治療を受けながら暮らしている。
このようなむごいことは全世界のどこにもあってはならない。話合い、ゆずり合い、我慢をして平和な世界を築かなければ。

笹森恵子さん

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広島被爆 1932.6.16生まれ 被爆当時13歳

女学校3年生のとき、爆心地から1.5kmの地点で建物疎開の作業中に被爆。ものすごい風圧に押されて倒れ、そのまま気を失った。小学校に避難したが治療も受けられず、飲まず食わずで4日間生死をさまよった。5日目に奇跡的に家族に発見され、母の献身的な看護を受ける。東大病院でケロイド治療のため、一年に20回以上の手術を経験。1955年、24人の女性とともに「原爆乙女」として治療のために渡米。5回に渡る手術をうけた後一時帰国したが、アメリカで看護師になるという夢を果たすために再渡米した。

八幡照子さん

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広島被爆 1937.7.25生まれ 被爆当時8歳

8月6日の前日は、中国に単身赴任中だった父が出張で戻っており、海水浴に連れて行ってくれた。前日の楽しい思い出を家族で話した6日の朝、爆心地から2.5km離れた自宅の裏庭に立っていた時に原爆が投下された。ぴかっと空一面が蛍光灯になったように光り、その場で気を失った。「みんなここに集まりなさい!」という母の声に気が付き、家族みんなで布団の下に入って死を覚悟。その後の避難中、黒い大粒の雨が降り、ずぶぬれになって歩いた。家族はみんな無事だったが、額に怪我をしたので救護所になっていた小学校に治療に向かう。自分の小学校は火葬場になっていた。ごうごうと燃える炎の中に死体を投げ入れる様子を、マヒしたようにぼーっと眺めていた。
わずか100年のライフステージ。みんなで手を携えて、平和のために生きていきたい。

高村秀樹さん

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広島被爆 1943.11.8生まれ 被爆当時1歳

当時の記憶は全くないが、爆心地から2.6km、木造家屋で被爆した。家の中の壁のかげで、15歳の親戚のお姉さんに抱かれていた。一瞬の差で何を逃れ、お姉さんも自分もかすり傷もなく無事だった。父は爆心地から1km離れた広島市役所の地下室で執務中に被爆。ガラスの破片が腕と額に無数に突き刺さったまま、血だらけの状態で帰宅した。戦後もその破片をすべて取り除くことはできなかった。母と従姉は洗濯ものを干した後すぐに被爆。母は左足に火傷をおい、ウロコ状のケロイドは終生残った。
1912年から広島市内を走っている路面電車も原爆で被爆した。戦時中、出征中の男性運転手の代わりを務めていた女学生も多くいる。戦後、市民の生活が再開される中で、路面電車も息を吹き返した。被災者たちの屈強なる復興の精神力を、被爆国日本の底力を、次世代へと語り継いでゆけたら。

岡本忠さん

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広島被爆 1944.3.23生まれ 被爆当時1歳

被爆時の直接的記憶は皆無。母とともに爆心地の北方2kmの自宅で被爆した。8月6日の朝、前日の建物疎開作業で疲れ切っていた母は、父を見送った後私をそばに眠っていた。自宅が倒壊してその下敷きになったことを意識が回復するまで気付かず、パニック状態になった母は、私の泣き叫ぶ声を聞いて我に返る。幸い母はかすり傷程度だったかが、私は左手首内側に深く木くずが突き刺ささり出血。応急手当で包帯を巻いてもらった。その後おじの家に疎開し、傷の治療を受けることができたが、今でも傷跡は残っている。証言活動を通して、“核のない世界”と“世界恒久平和”の実現を次世代に伝えたい。

以上9名の被爆者のみなさんとともに、7月18日~10月10日までかけて証言の航海をおこなって参ります。

クルーズの準備もラストスパートです。
みなさま、応援よろしくお願いいたします!

(おりづるユース特使 瀬戸麻由)

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