3.核廃絶へのいろいろな動き

「ヒバクシャと語る ~今さら聞けない核のこと~」を終えて

6月15日(日)、「ヒバクシャと語る ~今さら聞けない核のこと~」という、硬くて難しく聞こえる議題である『核、原爆、原発』について考えるイベントを開催しました。(以前、こちらでも紹介しました。)

group photo

たくさんの若者が一生懸命考える良い機会になりました

今回のイベントの魅力は、その道のプロではないけれど、興味・関心を持っている若者、学生が一生懸命に調べたり、勉強したりして発表する機会だったこと。それを聞くのも同じく、学生や若者。そして、そんな若者たちの取り組みを温かく見守り、69年が経った今でも振り返り、思い出すのもつらい原爆の日の記憶や経験を話してくださるヒバクシャのみなさま。
集まった40名の人々が、輪になって座り、自己紹介を始めると、一気に温かい交流の場となりました。

今回のイベントは、2部構成になっていました。
第1部は、江東区の夢の島公園内にある「第五福竜丸展示館」を訪れ、アメリカの太平洋における水爆実験で被爆した日本の漁船第五福竜丸とその船員たちの経験、その背景にある核兵器開発や世界的な核実験競争の歴史を学びました。

luckydragon_entrance

有志が集まったにもかかわらず10名くらいの方が参加しました。集まったメンバーは、「この大きな船を知る前に、この船がどうして被爆することになったのか、その背景となる世界の核兵器開発と実験競争について説明させてください」と言って始まった安田和也主任学芸員の説明を食い入るように聞いてメモを取っていました。
その後のガイド中村さんの話の時には、質問がどんどん出てきました。

Luckystrike_study

この真剣さ!

第二次世界大戦終盤に日本に核兵器を落としたアメリカと、その時点では疲弊して核兵器の開発に遅れをとっていたソ連(現ロシア)。戦後、冷戦時代の背景もあって急ピッチで核開発が推し進められました。そして、第二次世界大戦が終了した1945年の年末には、アメリカは新しい形の核兵器の開発に成功し、実験場所を探していました。そこで、本土から遠く、一年中安定した気候に恵まれ、環礁のおかげで海が穏やかなマーシャル諸島のビキニ環礁が核実験場として選ばれたのです。それだけでも衝撃的だったのですが、そこにもう一つの条件が加わったのだそうです。それは「人が少ないこと」。人が「いない」のではなくて、「少ない」こと。甚大な被害が出るので、人口密集地では実験できないことは認識されており、それでも人体への被害の調査をするために、人の存在は必要だったのです。なんとむごいことでしょう。本当に悲しくなりました。
また、現地住民への核実験の説明は、すべてのことが決定した後に「人類の平和と幸福のために協力してくれ」というものでした。戦前・戦中に日本軍に占領されていたマーシャルの人々は「軍からの命令は決して逆らえないもの。従わなければ」という意識だったそうです。それを聞いて、戦時中の命令の異常性、人の命の軽んじられ方、情報の足りなさによる判断ミス、、、そして核兵器の実験を人間の命をいとわずに行うアメリカ政府と、残虐な侵略行為を重ねた日本軍の罪の重さ、、、、。
そして、第五福竜丸の他にも800隻を超える日本の漁船が被爆したにもかかわらず、注目され方が大きかった第五福竜丸の乗組員にだけアメリカ政府からの見舞金(それでも補償金ではないのです)が支払われたことで、漁船乗組員たちの間で「なんであなたたちだけ?」といじめがはびこったこと、、、、、。被害者なのに、いじめられたり差別されたり、見えない放射能ゆえに怖がられ、嫌煙された経験、、、、まるで広島・長崎の原爆を体験された方のようです。こんな共通点に心を痛めながら、午前中の学びの時を過ごしました。

そして、第二部は、明治学院大学(白金校舎)で、来年2015年で被爆70年を迎えるに先立ち、若者と被爆者を中心に戦争や核について考える機会となりました。
最初に、瀬戸麻由さん(元おりづるユース特使/現おりづるインターン)がコーディネーターを務めて、ワークショップをしました。自分の好きなもの、趣味、大切にしていることなどを順番に質問することから始まり、核兵器に関して知っていることをフロアから聞き出し、今世界に存在する核兵器の数へ、、、。これを実感するのに、広島と長崎に落とされた核爆弾の威力と現在世界中に存在する核兵器17000発の威力を音で表現するなど、今回のニューヨーク訪問で、おりづるプロジェクトでもお世話になっている核軍縮教育専門家のキャスリン・サリバンから学んできたワークショップを存分に発揮しながら、参加者の興味とかき立ててくれました。目を閉じてBB弾の音を聞いた参加者からは「えー?音が永遠に続くかと思った」「怖かった」との感想がでていました。

group work

グループに分かれてディスカッション

そこで、広島で被爆された山田玲子さんのお話を伺いました。

Reiko and Mayu

山田玲子さん(左)と瀬戸麻由さん

山田さんの穏やかな話し方、冷静に1945年8月6日の様子を振り返る姿、、、それゆえにむしろびんびんと伝わってくる衝撃と混乱。当日の朝からの家族の様子。そして、午前8時に朝礼のために小学校の校庭に集まっていたという山田さん、立っていることも難しいくらいの炎天下だったため、木陰に入って休憩するように言われました。そこで、遊具によりかかるように座っていると、いたずらざかりの数人の小学校高学年の男子生徒は校庭の真ん中に残り、ぴょんぴょんはねてふざけていたといいます。そのとき、上空に米軍機B29が飛んできて、機体をきらりと光らせて引き返したのだそうです。次の瞬間、すさまじい光と爆風があたりをおそいました。あまりに一瞬だったのと、経験したことのない衝撃だったので、自分たちのいた小学校が爆撃されたとばかり思っていたそうです。でも、被害にあって大けがをおった人々が街の真ん中からどんどん逃げてくるので、どれだけ大きな爆弾が落ちたのだろうと思っていました。
その後、スペースの残る防空壕を探し回っている時に、放射能物質を含んだ黒い雨にあったのだそうです。少し落ち着きを取り戻して自宅に戻ってみると、大けがをした父親が運ばれてきたり、避難先から物を取りに行くように頼まれてお姉さんと一緒に自宅に戻る道中、真っ黒に焦げて人相もわからなくなった人(のようなもの)の横を通った瞬間、お姉さんの名前をかすかに呼ぶ声が聞こえて、振り返ったそうです。でも、やけどを負った人が誰だかわからず、そしてその姿の恐ろしさに声をかけ返すこともせずに走り去りました。ところが、その真っ黒にやけどを負った人は次の日にはそこに存在せず、お姉さんと共に今でも「あの時どうして誰だったのか訪ねてあげなかったのだろう」と後悔しているとのことでした。
それから、結婚を機に東京に出てきて、東京では原爆を経験している人自体が少ないため、ともに原爆の実相を語る人も多くないので、公共の場であの日のことを話すことはなかったそうです。ただ、8月6日を迎えるたびに二人のお嬢さんたちには母親として話して聞かせていたそうです。
でも、被爆の実相、当時の様子、被害のひどさ、その後の影響など、知っている者が話し伝えなくては、という思いにいたり、今では日本国内だけでなく世界をまわって証言をしていらっしゃいます。その流れの中で、今年4月もニューヨークを訪れてアメリカの高校を中心に証言をしていらしたのです。

会場に集まった学生の中には、被爆をされた方から直接話を聞くのが初めての方もいて、静かに聞き入っていました。

floor

静かに聞き入る会場の様子

山田さんのわかりやすく、そして思い出すのも苦しい記憶は、「二度とそんなことがあったらいけない」「そんな被害には遭いたくない・遭わせたくない」という思いになり、会場を包んだように思います。

それに続き、ピースボートで6ヶ月インターンをしてくれた茂木里穂さんが最近の核を巡る世界の動きを説明しました。ピースボートでおりづるに関わったことから学んだことや、ピースリングという核兵器について学ぶサークルから学んだことをまとめて発表してくれました。

Riho

NPTを語る茂木里穂さん

4月末にニューヨークで開かれたNPT(核不拡散条約)再検討会議準備委員会に参加した明治学院大学の中村くんが、現地での若者との交流の様子、国際会議の雰囲気などを臨場感あふれる形で発表してくれました。

Nakamura

ニューヨークでの経験について語る中村くん

その中で印象的で、かつ参加者の注目を得たのが、1)世界には、予想以上に核廃絶に向けて意識をもって活躍している若者が多くて勇気づけられたこと、2)ドイツの若者と話をしていたら、日本は”核の国”として認識されていてヒロシマ、ナガサキ、ヤイズ(第五福竜丸が被爆した後に帰港した港)、フクシマの名前があがってきた。そして「なぜそれでもまだ原発を続けようとするの?」「なぜ核兵器廃絶へのイニシアティブを取らないの?」と聞かれて、答えに困ったことでした。
これは、実際に日本の外に出て、直接会話してみないとわからない感覚であり、生の質問なのだと思います。

プロの核専門家ではなかったし、早口になり滑舌が悪くなることもありましたが、中村くんのこのプレゼンテーションは多くの参加者の共感を呼んだようでした。その証拠に、ディスカッションの時間では「中村くんがニューヨークでやってきたように、同世代の人たちと直接語り、話し合い、説明し、一緒にアクションをとることが自分にできる最大のミッションではないかと思った」との感想がいくつかの小グループから出ていました。

Speaker3

Speaker1

Speaker2

様々な意見が、活発に出ました。

もちろん、この一日で核兵器のこと、被爆者のことが全部わかったわけではありません。
でも、一番大切なこと、「被爆者の方のお話を直接聞けるのは【私たちが最後の世代】である」こと、「自分の言葉で表現できるように学ぶことが大切だ」ということが伝わったのではないかと思っています。

今後の若者の活躍に期待をしつつ、おりづるプロジェクトとしてもできる限りのことはしていきたいと思っています。

Discussion

シンポジウムの後は、4時間に渡って語りが続きました

ピースボート 渡辺里香

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