1.ヒバクシャ証言の航海

僕が「被爆者」になった日

クルーズ中の2月に船上で89歳の誕生日を迎えられた三宅信雄さんは、96回クルーズに乗船されていた被爆者のおひとりです。

このクルーズに乗ることができてよかったと心から思える理由のひとつが、三宅さんに出逢えたことです。

三宅さんは16歳のときに広島で被爆しました。

船上やオーストラリアの寄港地でも証言をしていただきましたが、短いものばかりだったため、改めて三宅さんに被爆体験をお話しいただく機会を設けました。

「わたしはきのこ雲を見ていない。なぜなら、あの雲の下にいたから」

この、なんともはっとさせられる言葉で三宅さんの被爆証言は始まりました。

当時16歳だった三宅さんは、広島の工場で武器をつくる仕事をしていました。

その日は母親に会うために、早朝から広島駅へ向かい、直通の電車が来なかったのでいつもと違う電車に乗りました。三宅さんを乗せた8時過ぎの市内電車は非常に混んでいたために、人に埋もれるような状態で電車に揺られていました。御幸橋(みゆきばし)を越えたあたりの広島電鉄前で降りようとしたそのとき「天井がピカーッと光るのを目にした」と、三宅さんは当時を振り返ります。

「電車が感電した!」と思い、とっさに電車から飛び降りましたが、その直後に真上からの爆風で地面に叩きつけられました。

その衝撃から「爆弾の直撃にあった!」と感じ、そのときは助からないと諦めたそうですが、しばらく経ってから薄目をあけると目の前は真っ暗でした。

三宅さんの被爆地点は爆心地からわずか1.8kmです。

急いで母親のもとに駆けつけると、半壊した家から助け出されたところでした。腰を打っていたのか歩けない状態でしたが、火が迫ってきていたために母親を抱えて逃げました。

その時に三宅さんの目に映った光景は凄まじいものでした。

「体はほとんど焼け、皮膚がたれ、まるでボロ切れを被ったような」人々、

「痛いよう、痛いよう」とうめく幽霊のようだったその人々は、女性か男性かも分からないほどだったと言います。

そして歩けない母親を軍の救命トラックに預け、三宅さんはまた、ひとりになりました。

—ここまでが、三宅さんが覚えているその日の出来事です。

三宅さんに再び記憶が戻ったのは、夕暮れの広島の街をとぼとぼと歩いているときだったそうですが、そのとき目にした光景はその日の朝に見たものとは全く違っていました。

川には多くの死体が浮き、燃え残りが青い火の粉をあげていました。

広島駅に向かうと全焼した駅に張り紙を見つけました。

「大本営発表 敵は今朝、広島に高性の爆弾を投下せり。被害、僅少の見込み」

この光景のどこが「被害僅少」なのか?

そのような発表をする大本営を、嘘っぱちだとはじめて思ったと三宅さんは話してくれました。

これが、「三宅さん」が「被爆者」になった日の、「三宅さん」に起こった出来事です。

同じ電車に乗り合わせたひとでも、窓側にいたひとたちは亡くなったかもしれない。割れたガラスが刺さったひとも多くいたはずです。

身長が低く、まわりのひとに埋もれていたこと。

瞬時に電車から飛び降りたこと。

たまたま直通の電車が来なかったこと。

様々な理由が重なり合い、三宅さんは助かりました。

しかし、広島での被爆体験は助かったからよかったと、それで終わることではありません。あの日の出来事はその後の三宅さんの人生に重くのしかかっていきました。

「広島から心身共に逃げたかった」

あの光景を思い出すのが苦しく、三宅さんは大学進学を機に上京しました。卒業後もそのまま都内で就職し、東京で家庭を築きました。

つらい記憶のある広島を避けて生活していた三宅さんですが、被爆から37年がたった頃、被爆団体と関わり始めることで原爆や自身の被爆体験を見つめ直すことになりました。

そこではじめて生き残った被爆者の戦後を知り、37年が経ったそのときまでずっと心身共に被爆体験に苦しみながら生きてきた被爆者の存在を知りました。

原爆症に悩まされ仕事にも就けず、貧困のなかにあった被爆者たち。

燃え盛る瓦礫に肉親をおいて逃げたことを忘れられない被爆者たち

「ピカにあったひとに近づくとうつる」と差別された被爆者たち。

そして、ヒロシマから逃げ続けてきたことを後悔し、証言活動や核兵器廃絶の運動に関わるようになったのです。

「助かったからといって、(ヒロシマと向き合うことから)逃げてきた」

「もう二度と同じ想いを他のだれにもさせたくない」

という思いで、未来のために30年以上もの間、自身の被爆体験を語ってきました。

昨年の国連における核兵器禁止条約の採択や、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞受賞について、三宅さんは「ひとつの道筋が開かれたと思った」と同時に、「本当に核兵器が廃絶されるのは、私が人生を終えた後だろう」と話しました。

そして、「最後の目標を達成するのは若いひとたち」と、バトンを託してくれました。

私は今回のクルーズで三宅さんと出逢い、孫のように可愛がっていただきました。

三宅さんと過ごした56日間が私にとってどれほど大事な時間になったことでしょうか。

「被爆者」として出会った三宅さんでしたが、すぐに私にとって「大好きな三宅さん」に変わりました。

あの73年前の広島の雲の下で、私の大好きな三宅さんが「被爆者」になったということ。

あの日「被爆者」になった人々はみな、誰かの大切な「◯◯さん」だったこと。

もしかしたらあなたが、あなたの大切なひとが「ヒバクシャ」になるかもしれないということ。

そんな可能性のある世界に今私たちは生きていること。

73年前に三宅さんが体験したこの世のものとも思えない非人道的な現実が、明日、明後日に起こらないと言えない今、日本に向かう船上で三宅さんのお話を聞く機会をつくることができて本当に良かったと思います。

あの日のことを今一度語って下さった三宅さん、本当にありがとうございました。

文:おりづるユース 安藤真子

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