おりづるプロジェクト2018

13歳のぼくの人生が変わった日

田中さん①

水先案内人としてアデレードからシドニーまで乗船されていた田中煕巳(たなかてるみ)さんは、1945日、長崎市の自宅で被爆されました。

長年にわたり、国内外での証言活動や国際会議などでの発言を通して、核兵器廃絶に向けて積極的に活動を続け、現在は日本原水爆被害者団体協議会の代表委員をされています。

今回は、クルーズ中に船内や寄港地で証言をしていただいた田中さんの被爆体験をご紹介します。

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1945年8月9日、その日の朝刊には日前に広島に新型爆弾(原爆)が投下されたことが報告されていました。

自宅の2階で本を読んでいた田中さんは、B29爆撃機1機が上空を飛ぶ音を耳にしました。次の瞬間、すべてが真っ白な光に包まれたそうです。

2階から駆け下り畳に体を伏せた瞬間、気を失いましたが、しばらくして母親に名前を呼ばれて意識が戻ると、ガラス戸の下敷きになっていました。奇跡的にそのガラス戸はひとつも割れていなかったため無傷で助かり、また、1階にいた母親と妹も無事でした。

なぜあの時、気を失ったのか、何年にも渡っていろいろと調べてみたそうですが、今でもその理由はわからないそうです。

爆心地から3.2キロ離れていた田中さんの自宅と爆心地の間には山がありました。もしかしたら原爆の爆風が多少でも遮られたのかもしれない、そして奇跡的にガラスが割れなったことなど、いろいろな要因が重なって大きな被害もなく助かった、と田中さんは振り返ります。

家の外に出ると爆心地付近の空は赤く染まっているのが見えました。自宅外にある防空壕に逃げると、皆が口々に「家に爆弾が落ちた!

と血を流しながら騒いでいました。

当時、父親を亡くして母子家庭になった田中さん一家は、母親の姉である叔母を頼って長崎市に帰ってきていました。田中さんたちは前述の通り爆心地から山をはさんで3.2km離れたところに住んでいたのですが、頼りにしていた母方の叔母と父方の叔母家族が爆心地付近に住んでいました。

原爆が投下された翌日、急いで安否を確認しに行こうとしたのですが、爆心地周辺から来た人に「あそこは子どもが行けるとこじゃない」と言われ、諦めていました。

投下から3日が経ち、ようやく爆心地付近へ向かい、変わり果てた長崎の街の姿にただ驚くことしかできませんでした。

しかし「こわい」「かなしい」という感情はすぐに薄れていき、だんだん無感覚になっていきました。

爆心地から700m の母方の叔母の家にたどり着くと、叔母は大やけどを負って亡くなっていました。その場で自分たちの手で叔母を荼毘に付し、遺骨を拾いました。

祖父もやはり大やけどを負って瀕死の状態でしたが、後に亡くなりました。

叔父は傷が軽かったものの、強い放射線の影響で高熱に苦しみながら10日ほど経ってから息を引き取りました。

家屋が崩壊し、何も目印のない中で親戚を探すのは本当に大変でした。

爆心地から500mのところに住んでいた父方の叔母と従兄弟をようやく見つけましたが、真っ黒焦げの遺体となっていました。何もできず、その場に放置して立ち去るしかありませんでした。

結局、金銭的にも精神的にも力になってくれていた叔母を含め5人の親類を亡くしました。

その時の光景や亡くなっていった親戚のことを、田中さんは73年の時が経った今でも忘れられないでいます。

1945年の末までに、広島で14万人、長崎で7万人の命を奪った原爆の被害は想像できないような被害であり、地獄のような死に方だと話す田中さんの言葉には胸が締め付けられる思いです。

田中さん②

終戦後、学校が始まり、原爆の被害はどうだったかと先生が尋ねました。自分以外の家族がすべて原爆によって命を落とし、ひとりぼっちになってしまった同級生がいました。

証言中にその同級生のことを思い出した田中さんは「かわいそうでかわいそうで仕方なかった」と、言葉を詰まらせて涙ぐみました。

母子家庭だった田中さんの家族は収入がなくなり、戦後の生活はとても厳しいものでした。戦後1年は残った父親の遺品などを売りながらやり繰りし、売るものがなくなると母親、兄、そして田中さんも働きながら何とか4人で暮らしました。2、3日、何も食べられないことも度々あったと言います。

その後、理工系の大学へ行きたいと考えていた田中さんは、トランク1つを抱え、ひとり上京しました。東京では職を転々としながら貯金をし、年間働いた後、大学に進学しました。

後に被爆者活動に参加するようになった田中さんは、これまで40年以上、国内外で核兵器廃絶のための活動を続けています。被爆体験を話す被爆者を増やすことに尽力し、また、長年にわたって日本被団協の事務局長を務めながら核兵器廃絶と被爆者の支援を求めてきました。

国連では原爆展を開催し、核の非人道性を世界に訴えました。

そして昨年の核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のノーベル平和賞受賞の際には、これまでの被爆者や被団協の活動が核兵器禁止条約の採択への動力の一端を担ったということで、オスロでの授賞式に招待され出席しました。

企画会場

田中さんと過ごした時間は約10日間と短かったものの、寄港地での証言会の合間にメルボルンの街を一緒に散歩したり、いとおしく思い出せるエピソードがいくつもあります。

また、被爆者、二世にあたる世代、三世にあたる世代で「継承」について考えた対談形式の企画で一緒に登壇させていただき、本当に有意義な学びの時間となりました。

若い人に引き継ぎながら、核兵器廃絶に向けて活動を続けていきたい、と話す田中さん。

引き継ぐ「若い人」の一人として、お会いできたことに感謝です。

本当にありがとうございました。

文:おりづるユース 安藤真子

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