おりづる全国証言会

おりづる全国証言会/第1弾 『私の被爆体験~おなかの中からみた原爆~』を開催しました

みなさん、こんにちは。おりづるピースガイドの橋本舞です。

クラウドファンディングで集まったお金で開催している「おりづる全国証言会」。第1弾は、毎週水曜日にピースボートセンターとうきょうで行なわれている、定例勉強会の一環として4月4日(水)に行ないました。遅ればせながら報告をします。

簡易版のレポートはこちらをご覧ください。

ピースボートの定例勉強会では毎回、様々な分野のゲストをお招きしみんなで楽しく知識を広めようという趣旨のもので、どなたでも参加できます。(最新のイベント情報はこちらから)。

今回は、東京都稲城市在住の濱住次郎(ハマスミ・ジロウ)さんにお越し頂き、被爆体験を証言していただきました。

濱住さんは1946年広島生まれ。濱住家の末っ子として産まれました。原爆が投下された当時はまだお母さんのおなかの中にいて「胎内被爆」をしました。「胎内被爆」とは、濱住さんのように、原爆投下当時は母親の「胎内」におり1945年8月から1946年6月の間に産まれた人のことを指します。このような経験をしている人は少なくありません。



今回の会では、証言をしていただく前に、まずは濱住さんが一体どういう人なのかを会場のみなさんに知ってもらいたいと考えました。そのためにまずは対談形式で、濱住さんご自身に関する、原爆とは直接関係のない話を伺いました。

その日の会場に集まったのは約25名前後。そのほとんどが20代~30代ぐらいの若い人々でした。少しでも接点を見いだしてもらえればと、学生時代はどのように過ごしていたのかを聞いてみました。

実は濱住さん、学生時代は高田馬場近くの大学で過ごしていたのだそうです!当時は学生運動が盛んで学校に通えることが少なかったようですが・・・。同じ高田馬場にあるのですがピースボートセンターに訪れること自体は初めてということで、印象などを伺いました。「学生時代の高田馬場は今みたいに建物もあまりなくて、こんな風に若者が集まる場所も知りませんでした。それでも通い慣れた高田馬場駅が最寄りという共通点があることで懐かしく思います」と「高田馬場」という共通点からピースボートに対して親近感を持ってくださいました。



濱住さんがどのような人物か分かったところで証言会が始まりました。

実は濱住さんが証言をし始めたのは、濱住さんのお父さんが亡くなった年齢と同じ49歳になってからだそうです。その年齢になり、自分の家庭・子どもを持ったときに、改めて自分の父親はどのように亡くなったのか、そのときにどんな想いを持っていたのかを知りたいとの思いが募ったそうです。


自分の父親は原爆で死んだが、実際に亡くなった場所や状況はどういうものだったのか、その日、それぞれの家族はどのように過ごしていたのかなどを知るために、濱住さんは「原爆投下当時、どこにいてどんな様子だったのか教えてほしい」と兄弟全員に手紙を出したそうです。全員が、驚くほど細かく当時の状況を書いて返信してくれたといいます。濱住さんは1945年8月6日はまだお母さんのおなかの中です。ですので、どういう状況だったのかご自身の記憶はありません。しかし兄弟の一番上のお姉さんとは16歳離れており、兄弟から聞いた話を教えてくれました。

濱住さんのご実家は、爆心地から4㎞離れていたために倒壊を免れましたが、市内から避難してきた親戚や友人、約30人で家の中はいっぱいになったそうです。その中で唯一お父さんだけが戻りませんでした。また、3歳の従兄弟は無傷でしたが原爆投下後から20日後に亡くなり、身重のお母さんの代わりに作業に出たおじさんは3日後に亡くなったそうです。



翌日、戻らないお父さんを捜しに兄弟が、爆心地から約500m離れた会社へと探しに行きました。しかし遺体はなく、見つかったのはベルトのバックル・溶けて固まった鍵の束・がま口財布の金属部分だけでした。それらは遺品として遺骨の代わりにお墓の中に入っているそうです。

このとき、お父さんを捜すために市内に入った兄弟も被爆し、数日後から熱や下痢などの症状に苦しみました。

当時の状況の話しをしてくれた後に、濱住さんは兄弟からのそれぞれの手紙を読むうちに多くのことを知ったと言います。

自分は無事に産まれることができたが、それと引き替えのように父は亡くなったこと、原爆で父だけでなく、たくさんの人が犠牲となったこと、生きたくても生きられない人がたくさんいたこと、そして、父が伝えたかっただろう愛情を家族みんながかわりに私に注いでくれたこと。

兄や姉は、大学に進学せずに家族を養うために働いてくれ「おまえは大学に行きなさい」と、そのお金で自分は大学に行かせてもらったこと。

様々な人の想いがあって自分はここにいるということ。

今自分を生かしてくれている多くの人達の想いを自分が受け継いで伝えて行かなくてはいけない。お父さんの倍以上生きなければいけない。それが自分に託された使命だ。そのような気づきと決意が、濱住さんが証言をしていこうと決めたきっかけでした。



証言活動を始めていく中で、濱住さんは自分と同じ胎内被爆をした子どもたちの中で「小頭症」という後遺症を経験している子がいることを知りました。原爆小頭症は、妊娠初期の胎児が大量の放射線を浴びることで引き起こされます。放射能は、母親の身体を貫き、胎児という無謀な若い細胞だからこそ、発育障害などの計り知れない影響を及ぼしました。

このような場合「被爆者」として子どもが差別を受けないように、長い間親たちは周りからずっとそのことを隠し、自分の子どもが小頭症なのは、原爆から守れなかった自分たちのせいだと責めてきました。

濱住さん自身も、被爆している子ども達としていない子ども達で分けられ、発達に違いがないかを比べるために身体調査を受けたそうです。

濱住さんは当時はその調査に対してなんとも思っていませんでしたが、大人になって理由が分かったとき、何とも言えない憤りが込み上げてきました。「あの原爆でどれだけ多くの人が犠牲になったのか、どれだけ多くの人が後遺症で苦しんでいるのか、それを知った上で、まだ私たちを研究材料として見ているのか」と。

戦後70年以上がたった今も、原爆の残虐さと放射能は、被爆者を苦しめ続けています。さらに、核兵器は世界に約15000発あると言われています。まだ核兵器による恐怖は続いているのです。核兵器の恐怖から完全に逃れるまで、被爆者は安心して死ぬことはできないのです。

よく「核の傘」と言いますが、私たち被爆者からすれば、核の傘とは、あの日、あのときのきのこ雲の下のことです。

その核の傘は何を守ってくれるのでしょうか。

あのとき亡くなった人たちが伝えられなかった想いを私たちが引き継いで行かないといけないのです。

そう力強い言葉で濱住さんは証言を締めくくりました。



証言の中でたくさんの方の言葉を引用していた濱住さん。

その言葉は「その人たちの想い」に濱住さん自身の想いが重ねて吹き込まれ、聞き伝えであるにも関わらず、とても力強く感じられました。

証言終了後、会場にきてくださったかたから質問を受けたり、感想を述べたりしてもらう時間を設けました。学校の自由研究として核兵器のことを調べる中で、今回の勉強会を知り参加してくれた中学生。濱住さんと近い年代だけれど「少しでも自分にできることがあれば教えてほしい」と述べてくれたご婦人。濱住さんの想いはしっかりと、会場にきてくださった方に伝わっていました。

今回私は司会としてこの勉強会に携わりました。会の冒頭での濱住さんの優しいまなざしがとても印象的でした。優しさの中にしっかりとした「受け継ぐ想い」を持った濱住さん。その姿こそ「直接、原爆を体験していないけれど受け継いでいく私たち」が持つべき姿なのではないかと思いました。



そして、よく耳にする「核の傘」という言葉についても考えました。具体的に「核の傘」がどんなことからどんな風に守ってくれるのか、私にはイメージできていませんでした。しかし濱住さんの「私たち被爆者にとって『核の傘』とは、あの日の原爆によるきのこ雲以外の何物でもない」と聞き、「核の傘」とは守ってくれるものではなく、多くの命を奪い、長年において人々を苦しめるものでしかないと実感しました。

それがたとえ、使われたのが他国だったとしても、日本は無関係ではありません。たとえば放射能は風に乗って日本へとやってきます。

「自分と同じ想いをさせないために」と核兵器廃絶のために頑張ってきた何万人の想いを踏みにじることになるのでしょう。

あのとき、生きたくても生きることができなかった多くの人たちに、どう手を合わせたら良いのでしょう?

核廃絶に向けて世界が大きく動き出している今、私たちは何ができるのでしょう。

国に任せていてはいつまでも変わることはできません。

私たち市民レベルで動くからこそ、変えられることもあるのです。

「私たちと同じ苦しみを誰にもさせないために」その意志を引継ぎ、今の私に何ができるのか考え行動していきたい。それが再確認できた、貴重な時間となりました。

(文責:橋本舞)

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