こんにちは、おりづるプロジェクトユースの山崎 御園です。
10月26日にキューバのハバナを訪問し、証言会を行いました。
私たちが寄港した日は、キューバにとっておめでたい日でした。なぜなら、国連総会でキューバに対する経済制裁の解除を決める決議が採択され、これまで一貫して反対してきたアメリカが初めて棄権に回り、両国関係が改善していることを示したからです。
歴史を遡りますと、1959年にチェ•ゲバラとフィデル•カストロ率いるキューバ革命によりキューバが社会主義国となり、アメリカとキューバの国交は断絶していました。
1962年にはキューバ危機が起こり、キューバに対するソ連の核ミサイル配備をめぐってアメリカとソ連が激しく対立し、核戦争の一歩手前まで事態は緊迫しました。
当時のキューバは事実上アメリカの支配下にあり農民たちの中では不満が募っていたのです。
そこでキューバ革命が起こり、アメリカではなくソ連と親交を深めることになりました。1962年の夏、ソ連がキューバに密かに核ミサイルを配備したことをアメリカが発見し、キューバ海上を封鎖し、核ミサイルの基地の撤去を迫り、一発触発の危険に陥りました。この一連の流れによりキューバとアメリカは国交を断絶しましたが2015年7月20日、アメリカとキューバの両政府は、1961年の国交断絶以来54年ぶりに国交を回復し、ワシントンとハバナにある両国の利益代表部はそれぞれ大使館に格上げされました。アメリカは当時から一貫してキューバに課していた禁輸•制裁措置を一部解除し観光などの経済交流が進んでいます。
このキューバ核危機がきっかけとなって、ラテンアメリカでは1963年に同地域の非核化を求める国連決議が採択され、その後メキシコのイニシアティブによる条約作成作業が開始され、世界で初めての非核兵器地帯条約が1967年に署名、1968年に発行しました。
国連総会は26日、アメリカによる対キューバ制裁を解除するよう求める決議案を採決し、賛成191、反対0、棄権2で採択しました。アメリカが続けている、キューバに対する経済制裁の解除を求める決議が過去24年間にわたってアメリカなどを除く圧倒的多数の賛成で採択されていて今年もニューヨークの国連総会で裁決が行われました。
この中でアメリカのパワー国連大使が「これまで常に反対してきたが今日は棄権する」と述べると議場から拍手が起こりました。棄権した理由としてパワー大使は、「女の子が男の子と同じ様に小中学校に通える様になったり国民の福祉面でも大きな進展があった」と述べ、キューバで民主化が進んだことなどを挙げました。
キューバに対して経済封鎖を解除することを国連の決議ではアメリカが棄権して同じくイスラエルも棄権、キューバに歩み寄った姿勢が見られたのです。
続きまして、活動報告に移らせて頂きます。
まず初めに、市内で一番栄えている町の、一番高い建物の33階のレストランにて食事をとりました。窓から見える景色は綺麗な市街地を始め、少し離れれば壊れた建物に住む人たちも居て、貧富の差を感じさせるものでした。
贅沢な食事の時間を楽しませていただいた後には、ラテンアメリカ医科大学を訪問しました。
大学では来客と国旗の前で写真を撮る習慣があるそうで、一緒に記念撮影をして頂いたり、お土産のおりづるを渡したり、交流を楽しみました。
国旗の前で記念写真
次に、学校長から医科大学の歴史について説明して頂きました。
1998年に、大規模な自然災害のハリケーンがカリブの国々を襲い、ハリケーン被害にあった諸国にキューバの医師が出向きました。支援を受けた国々は国で健康を保ちたいと強く思い、そのためには自国の国々の若者を育てることが大切ということに気がつきました。そこでキューバの医師に教育を求め、その5ヶ月後の1999年、ラテンアメリカ医科大学が創立し、ラテンアメリカ諸国の学生に無料の医師養成プログラムを立ち上げました。
現在は、世界各地の学生を受け入れるに至っています。計6年のプログラムを修了した生徒たちは出身地に帰り、医療の行き届かない地域に従事することになっています。
大学は全長1.9kmあり、900ヶ国からきている2900人が収容できる学生寮や42個ベットのある病院があったりととても大きな施設でした。
説明を聞くおりづるメンバー
また、学費はキューバが負担しているそうで、より貧しく、より医師が必要な国から学生を選んでおり、入試の面接ではその受験者が何を故郷に貢献しようとしているのかをより重要視しているそうです。
このシステムは経済封鎖の中で本当にすばらしいと思ったし、日本も見習って行くべきだと思いました。ここにいる生徒たちは、まさに世界の希望だと思いました。
説明を聞いた後には、学生や職員が待つ会場へ移動しました。
初めに、学校の理事長からのご挨拶がありました。
大学側は卒業生の追跡もしっかり行っているらしく、現在は1200ヶ国の27000人の卒業生が世界各地で活躍しているそうです。学生の中には両親が卒業生という方も多いそうで、学校方針を聞いた後だったのでより納得ができました。
次に、ピースボート創立の一人である吉岡達也さんからのご挨拶がありました。
ピースボート共同代表の吉岡さんの挨拶
吉岡さんからは、世界中で戦争体験の証言を聞いてきたがやはり戦争は絶対にしてはならないと思ったことや、被爆者の方たちは健康が完全ではない中、命をかけて証言をしているのだから、証言を聞いた人全員に責任が宿ります、ぜひ言葉を語り継いで行ってください、との力強いお言葉を頂きました。
このお言葉により、証言会を聞く時は受け身体制ではなく、全てを吸収し今後に繋げるために考えながら聞こうと改めて思いました。
その後は、icapという、キューバ諸国民友好協会代表のMSc.Kenia Serrano Puigさんから挨拶を頂きました。
挨拶の後には、第1回おりづるプロジェクトのドキュメンタリー、「フラッシュオブホープ」を上映し、学生の皆さんに原爆投下についてのイメージを持ってもらいました。
内容は、原爆投下当時のイラストと共に被爆者の方の英語による証言を流したものでした。
上映後に証言をなさる深堀讓治さんが「もうこれ以上証言する必要はありません。」とご謙遜なさるほどよくまとまっているものでした。
その後は、14歳の時に長崎で被爆された深堀讓治さんによる証言会を行いました。
抑揚をつけた話し方は会場全体を惹きつけていてやはり生の声にかなうものはないなと強く思いました。深堀さんは証言をする度に亡くなられたお母様に謝罪をすると話されていて、改めて考えさせられました。
証言会後には学生たちに扇子、手ぬぐいのプレゼントを渡し、交流を行いました。
続きまして国家評議会を訪問し、第一副議長であるMIGUEL DIAZ-CANEL BERMUDEZさんとの面会を行いました。
MIGUELさんは、昔被爆者と会って感銘を受けたのでまた今日も共有したい、今日、この場に若者がいることが嬉しいとのお言葉をいただきました。
自己紹介の際に、私が演劇を通して核兵器の恐ろしさを継承していきたいと伝えるととても反応が良く次はキューバで演劇をしましょうと友好的なお言葉を頂いたり、核なき世界への実現に向けて共に協力していきましょうという思いをお互いに共有、合意することができました。
副議長と記念撮影
最後にはお土産を渡し、交流を行いました。
おりづるの形をした風鈴は日本人の私からしても物珍しく、とても喜んで頂きました。
最後には国の中心的存在である革命広場を観光し、独立の父と呼ばれるホセ•マルティの像を見たり、
ホセ・マルティの像
チェ•ゲバラの顔が描かれた内務省を見ることができました。
チェ・ゲバラの描かれた壁
チェ•ゲバラが1959年に広島を訪問し、原爆ドームを見学して以来、キューバでは原爆投下についての教育が行われてきました。そのため歴史の教科書にもそれが記され、8月6日と9日が歴史的にどういった日なのかを学んできた人が多いそうです。チェ•ゲバラは、キューバと広島を繋いでくれた人物とも思います。
夜には、ラテンサルサのフェスティバルにて山崎がスピーチをさせて頂きました。
ピースボートの観光客約1000人が寄港していることに対して、キューバにこれだけ多くの観光客が来ることは珍しいということで、賑やかなラテンミュージックでお出迎えして頂きました。
経済封鎖解除の決議が重なっていてか、会場の現地の方々の前での核兵器廃絶を訴えるスピーチは大歓声で迎えていただけたように感じました。
ピースボートのキューバへの寄港は2012年以来であり、しかも今回はアメリカを出港してから入港したという、まさに歴史的な出来事でした。
それもキューバにとって重大なニュースがある日に寄港できたことは、キューバ全体が前向きな姿勢でいたので私たちの核なき世界の実現に向けての想いもより強く響いたのではないかと思ったし、とても意義があるように思いました。
文/おりづるユース 山崎御園 編集/ピースボートインターン 鈴木慧南