ベネズエラからペルーまでひとりのヒバクシャが乗船した。名前は山下やすあき(69)さん。
長崎で6歳の時にヒバクした彼は地元の原爆病院の事務職として29歳まで働くが、原爆症で入院した同年代の白血病の男性が亡くなったことをきっかけに、メキシコへ。
(外見は日本人だが中身はすっかりメキシコ人になった、と山下さん)
「その人は私と同じ血液型だったので、何度か輸血を協力していたのですが、突然亡くなりました。その時、いきなり目の前に死というものが現れました。相手の死と自分の死を重ね合わせてしまったのです。日本にいると原爆のことが頭からずっと離れないと考え、それで以前から興味を持っていたメキシコに行こうと決意しました」。
山下さんは、20歳の頃、日本で大ブームを巻き起こしたラテン音楽、トリオ・ロスパンチョスがきっかけで、メキシコの旅行記を読むようになり、その中に登場するマヤ・アステカ遺跡に心惹かれ、長崎にある二十六聖人殉職地教会の司祭からスペイン語を学びはじめた。
そしてメキシコオリンピックの前年の1967年に移住。当初は習ったスペイン語がまったく通じず困ったというが、道行く人々との会話によってマスターし、以来、通訳や翻訳などの仕事で生計を立てる。その後帰化してメキシコ国籍を取得し、妻もメキシコ人である。
乗船中「住めば都~メキシコ人生40年~」と「なぜ山下やすあきというメキシコ人がいて、グディアレスという日本人がいないのか?」というふたつの船内企画に登場した。最初の講座は山下さんの半生を紹介し、ふたつめはメキシコ国籍を取得した彼のアイデンティティにフォーカスした内容。山下さんは、どこの国の人間であるかという問いに、メキシコ人とよどみなく答え、「日本のテレビや映画を観た時に日本人であるということを意識するが、今では夢をスペイン語で見るし、死んだらメキシコに散骨を希望します」と続けた。
(ペルー日系協会でのレセプションで地元日系2世の人たちと交流)
リタイアした現在はメキシコシティを離れ、サンミゲル・デ・アジェンデという町で陶芸や絵画などの創作活動に勤しんでいるが、年に1度、メキシコのモンテレー工業大学ケレタロー校で被爆証言を続けている。メキシコに来て数年経った75年、テレビニュースでヒバクシャとしてコメントしたのが人前で話した最初の機会だったが、大学関係者から依頼され、15年目を迎えるという。
「最初の年は、大学の会場が溢れんばかりの人で一杯になり、関係者もこんなに人が来たのははじめてだと驚いていました。その後、請われてアメリカのサンディエゴで証言をしたのですが、この時も大盛況でした」。
実は、招かれたとはいえ、場所がアメリカだけに非難されるのでは懸念していたが、『リメンバー・パールハーバー』と叫ぶ人を、周りの人たちが追い出してくれたという、いい意味で自由の国アメリカを体現するようなエピソードを教えてくれた。
今後もできる限り証言活動を続けていきたいという山下さん。日本からメキシコへと国籍は変わったが、ヒバクシャとしてのアイデンティティは今も変わっていない。
(ブラジル移民の森田隆・渡辺淳子さんや高校が同窓の吉田功・園子さん夫妻らと記念写真)
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