1.ヒバクシャ証言の航海

第5回おりづる参加被爆者紹介(広島編)

2012年1月24日に出航する第5回「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」の10名の参加被爆者の方を2回に分けて紹介していきます。今回は、広島被爆の5名を紹介します。

    ピースボートのおりづるプロジェクト李 鐘根(り しょうこん)さん

<略歴>
広島被爆 被爆当時16歳
在日韓国人二世。父親は日韓併合により、日本に強制連行された。日本での生活ができるようになったところで、母親を呼び寄せ、後に自身が生まれる。被爆当時、自身は日本国有鉄道に勤務しており、勤務途中で被爆。両親は入市被爆し、長く病床につく。

<被爆証言要約>
火傷で皮膚が変色し、毎日ウジ虫との闘いだった。髪の毛が抜けると死んでしまうと言われていたので、毎朝髪を抜けていないか心配でひっぱっていた。1ヶ月で仕事復帰したが、同僚が死んでいた。住吉橋や広島大学あたりの惨状は、目を瞑ると浮かんでくる。また人間のみならず馬・牛などの死骸の姿も心の中から消すことができない。核の廃絶を祈りながら命を引き取ることにしたい。

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    ピースボートのおりづるプロジェクト松永 静子(まつなが しずこ)さん

<略歴>
広島被爆 被爆当時13歳
被爆当時女学校2年生。建物疎開作業中に被爆。熱線により顔や首などに火傷を負う。同居していた祖母は爆風により倒れたタンスの下敷きになりその約1ヶ月後に他界。自身は放射能の影響と思われる急性症状に冒され、半年間病床についたが奇跡的に回復。たくさんの亡くなった同級生のためにもと、1985年より被爆証言活動を開始。

<被爆証言要約>
町内の建物疎開作業中に青空の中にB29が迫ってくるのが見えた。その瞬間に原爆が投下され、吹き飛ばされた。気づくと周りには人がおらず静かになっていた。左顔と首がヒリヒリ痛んだが、家まで自力で帰宅した。帰宅したら、母はガラスの破片が刺さり、ザクロがはじけたような感じであり識別が困難な状態だった。この世のものとは思えない、決して忘れることのできないひどい体験だった。

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    ピースボートのおりづるプロジェクト中村 博(なかむら ひろし)さん

<略歴>
広島被爆 被爆当時13歳
戦時中は学徒動員として日本国有鉄道に勤務。爆心地から1.8km地点にあった寮内にて被爆。大きな外傷を負わなかったため、ほかの被爆者の救護活動に従事。また、原爆で亡くなった方々の遺体収容作業にも携わる。被爆1ヶ月後より歯茎からの出血や脱毛が始まり、その後も白血球減少などにより入退院を繰り返す。広島県府中市原爆被害者の会会長。

<被爆証言要約>
原爆投下された時、最初は雷かと思った。避難中に道で会った人たちの頭髪は焼きただれ、靴も片方しか履いていない人が多かった。被爆者の治療を行っていた最中、治療に使った汚れた水を欲しがる人がいたことに驚いた。2日後、死臭が漂う中で死体の処理作業を行った。トラックの荷台から死体を下ろす際にとび口が使われ、その光景は目を瞑りたくなるような声もでないような悲惨なものだった。

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    ピースボートのおりづるプロジェクト永島 三歳(ながしま みとし)さん

<略歴>
広島被爆 被爆当時4歳
爆心地より2km地点にて左後方より被爆し、左手と両足後方に熱傷を負う。現在もその傷跡が残る。父親はすでに中国で戦死しており、母親と祖父母は被爆したが、幸いにも大きな健康被害を受けることはなかった。大分県原爆被害者団体協議会監査役兼、大分県被爆者団体臼杵市支部長。

<被爆証言要約>
パンツが溶けて、下半身にケロイドができた。「黒い雨」が降ってきて家の中に逃げたがその後の記憶がない。戦後、広島は食糧不足だったため、宮崎に引っ越した。高校生になるまで白血病にならないか不安だった。腕のケロイドのために「手をつながない」と言われたのが今でも心に残っている。また、駅伝をしていた時、ケロイドの跡には誰も触れようとしなかった。広島と宮崎における原爆への意識の違いを感じた。

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    ピースボートのおりづるプロジェクト石川 律子(いしかわ りつこ)さん

<略歴>
広島被爆 被爆当時1歳
三姉妹の次女として生まれる。原爆により爆心地付近の国民学校に勤務していた父親と同居していた叔母の二人が行方不明となる。その7年後に母親が病死。そのため三姉妹は祖母によって育てられる。小学校教員として教育現場にて平和教育に尽力。

<被爆証言要約>
父親は爆心地近くの国民学校で勤務していたが、父を見つけることができず小石を父の遺骨代わりにお墓に入れた。幼い頃は、白壁にたれていた「黒い雨」の跡が不気味で怖かった。そして、自分も父と同じ小学校の教師になり、同じ渡り廊下を渡りって原爆ドームを見ると父を思い出すことがあった。初めて自分の被爆体験を証言し、これから自分自身に何ができるか考えていきたい。

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長崎被爆5名の方は、長崎でのオリエンテーション後に紹介していきます。
お楽しみに。

(インターン 藤田美保)

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