3.核廃絶へのいろいろな動き

サーロー節子さんからのメッセージ

3月17日から18日、長崎で開催される「軍縮・不拡散教育グローバル・フォーラム」に向けて
第一回おりづるプロジェクトに乗船してくださったサーロー節子さんからメッセージが届きました。
[2011年02月15日(火)]

$    ピースボートのおりづるプロジェクト-Setsuko on youtube

動画(英語)はこちらから→
http://www.youtube.com/watch?v=th-beKNirSs&feature=youtube_gdata_player
(日本語のスクリプトは以下をご覧ください。)

「軍縮不拡散教育グローバル・フォーラム」とは:
日本国政府と国連大学が開催する、国際的な軍縮不拡散教育の更なる発展に貢献するための国際会議。

・開催日時   3月17,18日,
・開催場所  長崎原爆資料館ホール(長崎市) 

ブログ:http://blog.canpan.info/global-forum/
Twitter: @global_forum

【軍縮・不拡散教育とは: 
戦争や核兵器被害などの悲惨さや平和の大切さを伝えることを通して、広く各国国民に軍縮・不拡散の重要性・必要性の認識を広め、各国の軍縮・不拡散政策を後押しすることです。 

サーロー・節子さん プロフィール:
中学生の時に広島にて被爆。終戦の後米国留学を経て、現在はカナダトロントに在住し、北米各地において被爆証言を実施。カナダの教育制度に軍縮教育を導入することを訴え続けている。2007年には,平和活動家としての功績が評価され、カナダでは民間人に与えられる最高の栄誉とされる「オーダー・オブ・カナダ(メンバー)」を受章。
2008年、第一回ピースボート「ヒバクシャ地球一周 証言の船旅」に参加。

メッセージ (外務省仮訳):
セツコ・サーロー女史の被爆体験ビデオメッセージ

わずか一部ですが,私の広島での被爆体験を皆様にお伝えできる機会をいただき,嬉しく思います。

13歳の中学校生徒であった私は,学徒動員計画の一員として,他の30人の女生徒と共に,軍司令部で暗号解読の補助員として働く命令を受けていました。1945年8月6日午前8時15分、突然窓の外の青白い強烈な閃光を見ました。体が空中に浮いた感じがしました。完全な暗闇と静寂の中で意識を回復したとき,私は倒壊した建物のがれきの下敷きとなっていました。「お母さん、助けて!」,「神様助けてください!」と,仲間の生徒のかすかな声が聞こえはじめました。その時突然,誰かの手が私の左肩をゆさぶるのを感じました。そして男の人の声がして,「あきらめるな! 動き続けろ! 押し続けろ! 助け出してやるから。あの隙間に光が差し込んでいるだろう、それに向かって這って行き,一刻も早くここから抜け出せ!」と言いました。私が外に抜け出した頃、がれきは既に火で包まれていました。それは,仲間の生徒のほとんどが生きたまま焼かれ,死んだことを意味していました。兵隊さんが,私と,数人生き残ったほかの女生徒達に,近くの丘のふもとに避難するように命じました。

朝であったにもかかわらず、粉塵と煙がたちこめていたせいで,あたりは黄昏のように暗かったのです。呆然とした人達が,市の中心部から近くの丘に向かって足をひきずるように歩いていくのを見ました。その人達は,体中血だらけで,亡霊のような姿でした。裸の人,服がボロボロに破れた人,皮膚はひどく焼けただれ,黒くなって,膨れ上がった人達でした。体の一部が無くなり,肉や皮膚が骨から剥がれてぶら下がり、眼球が飛び出してしまってそれを手に持っている人達もいました。私達女生徒もこの亡霊のような列に加わって、死体と,死にそうになっている人達の上を注意深くまたいで歩きました。死の静寂があり,時々,傷ついた人達のうめき声や水を懇願する声が聞こえるだけでした。

丘のふもとにはサッカー場2面ほどの大きさの陸軍の演習場がありました。そこは、死体と負傷者でほとんど隙間なく埋め尽くされており,負傷者は何度も「水、水をください。」と消え入りそうな声を出していました。しかし,私たちは水を運ぶ容器を持っていませんでした。私たちは近くの小川に行って体についた血と土埃を洗い流し、着ていたブラウスを引き裂いて水に浸し、死にかけている人達の口元に急いで持って行き,その人達は必死で水分を吸い取ったのでした。私達はこの作業を一日中続けました。医者や看護婦さんはまったく見かけませんでした。そうするうちに日が暮れて、丘に座り,私達が目のあたりにしたあまりにも破壊的でグロテスクな死と苦しみで体全体の力が抜けたまま,街全体が焼け落ちるのを呆然と眺めていました。

こうして,私の大切な街広島は突然壊滅し、灰とがれき,骸骨と黒こげになった死体の山となってしまいました。約36万人の人口は,そのほとんどが非戦闘員である女性、子供、高齢者,彼らが原爆の無差別虐殺の犠牲者となりました。1945年の終わりまでにおよそ14万人が死亡し、また現在までに最低でも約26万人が被爆時の衝撃波、熱そして放射線が原因で死亡しています。8千人を越える市内の全中学の1・2年生だった私と同じ年代の生徒達は,市の中心部で火災を食い止める防火線の設営にあたっていました。彼らの多くは,摂氏7千度から8千度にもなった熱で死亡しました。 その多くは一瞬にして蒸発してしまったのです。原爆の特異性である放射線はさまざまな形で人々に影響を及ぼしました。被爆直後に致命的影響を受けた人もいれば、中には年月が随分と経ってから影響が出てきた人もいます。66年後経った今でも,放射線は人々を殺しているのです。

原爆の特性,想像できなかった日本の敗戦、外国軍による屈辱的な占領があったにもかかわらず、私達,原爆を生き残った者は、歴史的観点と地球規模の状況で,生き残った意味を見いだし始め、また個々の悲劇を乗り越え始めました。私達は,いかなる人間も私達が経験した核戦争の非人道性、違法性、非道徳性、残虐さを二度と経験してはいけないと確信するようになりました。そして私達は,世界に対して核戦争の危険性について警告することが,私達の使命であると認識しはじめました。人類と核兵器は共存できないことを確信し、安全保障への,そしてまた将来の世代のため人類と文明を存続させる唯一の道として,私達はここ数十年間世界中で核兵器の全面廃止を訴え続けています。

このフォーラムの参加者の皆様方に対し,私は,生産的なそして成功に終わる議論を行っていただけるよう願っています。私は,カナダの教育制度に軍縮教育を導入することに数十年間苦闘してまいりましたが、政府、教育機関、地域社会の間の相互協力を通じ,多くの学問領域にわたるアプローチで,効果的な軍縮教育を発展させていくことが、最も緊急な重要課題であると私は信じています。
ご静聴ありがとうございました。

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