1.ヒバクシャ証言の航海

チェルノブイリ原発とその周辺を訪問しました

4月2日、被爆者一行は全日本民医連の先生方と共に、チェルノブイリ原発の訪問ツアーを行いました。チェルノブイリ原発は、キエフから北に約130キロのところにあります。

 キエフから約2時間、原発から「30キロ圏」のチェックポイントを通過しました。予め提出しておいた名簿に沿って、一人ひとりパスポートチェックがあります。この30キロ圏は、事故後、「10日以内に退去せよ」といわれて5月上旬までに住民が退去された地域です。ただし30キロ圏といっても、正確に同心円ではありません。地図上では、でこぼこしています。もともとは30キロの同心円だったそうですが、その後汚染状況やホットスポットの存在などを勘案して変更が加えられたのでそうです。

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30キロ地点の検問所

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一人ひとりパスポートチェックを受ける

 当時、15万人以上が避難しました。現在では、汚染への対処や研究、、また後処理などの仕事のために約4000人が住んでいます。汚染が30キロ圏外に広がらないようにという努力も進められています。ここを通過するときの空間放射線量は、0.08マイクロシーベルト/時でした。

 そこから「退去地域(Exclusive zone)」ツアーが開始。ガイドのニコライ・フォミン(Nikolai Fomin)さんが乗ってきました。チェルノブイリ市内に入り、国営の「チェルノブイリ・インターフォルモ(情報センター)」で説明を受けました。地図を見ながらの説明で、チェルノブイリ市は原発からは約18キロ離れていること、原発にもっとも近いのは約3キロのプリピャチ市であること、汚染は主に北と西に広がっており、チェルノブイリ市の汚染はそれほど高くはないこと、などの話を聞きました。

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チェルノブイリ・インターフォルモ

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説明をしてくれたガイドのニコライ・フォミンさん

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汚染の広がりを示す地図が何種類も貼り出されていた

 ここで参加者は、さらに10キロ圏内に入るために必要な書類にサインを求められました。書面の内容は、当局の指示に従って行動すること、食事の前には手を洗うこと、キノコや木の実を取らないこと、土の上に座ったりカメラを置いたりしないこと、撮影禁止の場所では撮影しないこと、外で食べたりたばこを吸ったりしないこと、といった内容です。書面には、このエリア内での被ばく線量の上限は3マイクロシーベルトとすると記載されていました。つまり、毎時3マイクロシーベルトの場所だとすれば、そこに1時間だけ滞在できるという考え方です。

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同意書は英語で1ページ半

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同意書にサイン

 そのあと、近くの公園を訪ねました。ここには、10キロ圏、30キロ圏の地図をモチーフにしたモニュメントがあり、村があった場所にローソク台が一台ずつ付いています。チェルノブイリ市の中心の「ソビエト通り」と平行に走る道の両脇には、廃村に追い込まれた村の名前がずらりと数十ずつ並びます。その近くには青いポストがあり、ここは事故後に避難者同士が連絡を取り合うための郵便ポストとして使われたそうです。

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10キロ圏、30キロ圏の範囲を模したモニュメント

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廃村になった村の名前が道の両脇に並ぶ

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後ろから見るとこうなっている

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避難者の連絡に使われたポスト

 なんとその中におりづるのモニュメントがあるではありませんか。モニュメントの両脇には「ヒロシマ」「フクシマ」の文字を記したプレートが置かれていました。昨年4月26日の25周年にあたり、そのとき既に福島の事故が起きていたので、このプレートが置かれたのだそうです。

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おりづるのモニュメント。原子炉の制御に使われた黒煙の棒が立てかけられている

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Hiroshimaの文字が。同様にFukushimaの文字もある

 その向かいには、放射線の測定センターがあり、30キロ圏内にある33カ所の測定所のデータが集まってくるのだそうです。ちなみにその地点の空間線量は0.14マイクロシーベルト/時でした。

 雪が降ってきて大変寒い中、少し車を走らせて「消防士の像」へ。原発が爆発して火災を起こしたときに、28人の消防士が放射線のことなどは何も知らされないまま消火に当たりました。全員2週間以内に亡くなったそうです。続いて当時放射線の汚染除去にあたったロボットや装甲車が並んでいるエリアへ。ここは柵がしてあって立ち入りはできないのですが、柵のところからはかる空間線量は0.31マイクロシーベルト/時。ロボットや装甲車に放射性物質が残っているのではないかと考えられます。

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消防士の像。彼らは放射能のことを何も知らずに消火に当たり亡くなったが、このときソ連政府は放射能のことを十分理解しており、住民を強制退去させた。そして何の対外的公表もしなかった

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汚染調査に使われたロボット

 さらに車に乗って原発に近づいていきます。原発から4~5キロのところにコパチ村(Kopachi)がありました。この村のほとんどは土をかぶせて埋められてしまいましたが、二つの建物だけが残されています。一つが役所、もう一つが幼稚園です。この幼稚園の中に入らせてもらいました。
 幼稚園の中には、人形、ぬいぐるみ、掲示物、絵が散乱し、子どものベッドや本棚が手つかずのまま荒れ放題になっていました。泥棒や略奪が入り、荒らしていったようです。

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像の奥に見えるのが幼稚園

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幼稚園の中は荒れ放題

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幼稚園の中

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幼稚園の門の前にも人形が

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人形のところに線量計をあてると0.4μSv/h強

 そこから車で原発の敷地内へ。敷地内では、写真撮影は禁止されています。1号炉から4号炉までの並びを車で通過し、事故を起こした4号炉(今では石棺によって封じ込められています)の目の前にあるモニュメントのところで集合写真をとりました。ここでだけは写真撮影が許可されました。
 石棺によって封じ込められているとはいえ、空間への放射線の放出は続いています。その証拠に、その場に線量計をかざすと3~9マイクロシーベルト/時まで数値は跳ね上がりますが、モニュメントによって遮られる場所に線量計を移すと、線量は急速に下がり、0.1マイクロシーベルト/時まで落ちたのです。

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後ろにあるのが事故を起こした4号炉。黒いモニュメントの手前では極端に線量が低い。モニュメントが放射線を遮るからだ

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近くで「第2の石棺」をつくる作業をフランスの会社が行っている

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空間線量は8μSv強。石棺がしてあるといっても強い放射線が放たれ続けているのが分かる

 昼食は、原発労働者の食堂でいただきました。建物に入る際に体の外部被爆を計る全身測定器を一人ひとり通過し、石けんでよく手を洗います。ボリューム満点の食事にびっくり。配膳の女性スタッフに聞くと、勤務はシフト制で一月のうちここに滞在する日数は限定されているのだそうです。

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食堂に入る際に外部被ばく線量を全員がチェックする

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原発労働者の食堂で

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ボリュームは多いが、これがウクライナやロシアでは典型的な昼食だそうです

 昼食後は、今やゴーストタウンとなったプリピャチ市へ。原発から3キロに位置するこの町は、1970年に原発で働く労働者や科学者のために作られたもので、当時の人口は5万人、うち1万2000人が原発労働者でした。平均年齢26才の若い町でした。

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廃墟となったプリピャチ

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 私たちは廃墟と化した無数のアパート、文化宮殿(文化センター)、ホテル、レストラン、遊園地などを見学させてもらいました。ガイドのニコライさんは「土などは放射線量が高いので、必ずアスファルト上を歩くこと」また「集団で歩くこと。オオカミがいるから(本当に!)」との指示。実際に地面に生えたコケに線量計を近づけると、10マイクロシーベルト/時をこえるほどの線量がありました。事故から26年目にしてこれほどの汚染が続いているのだということに、一同言葉を失いました。

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廃墟を前に集合写真

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コケの上はとくに高い線量

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3μSv/h。10を超えるところもあった

 1986年4月26日に事故が起きたあと、ソ連政府は36時間後にプリピャチ市民全員に退去を命じます。バス数百台が動員され、3時間で5万人の退去が完了したということです。しかしこの時点で、ソ連政府は原発事故について何ら公表していませんでした。住民たちは、通常の火災だと思って避難しました。しかしプリピャチは原発のためにできた町であり、多くの科学者たちが集まっていたわけで、彼らは何が起きているかを理解していました。ソ連政府が情報を隠す中、この原発事故はスウェーデンが放射線量の上昇を探知したことにより発覚し、世界に知れ渡ることになります。
 プリピャチに退去命令が出された翌日、先に訪問した幼稚園のあるコパチ村など10キロ圏内が退去を命じられます。その後30キロ圏が「10日以内に退去」を命じられ、これらの大規模な退去は5月上旬までに完了しました。一時的避難だろうと思って退去し、そのまま帰られなくなった人たち、あるいはその後市に戻ってそこで被ばくした人たちも多かったようです。当初政府の説明は「3日間だけの避難だ」というものでした。それが結局、永遠に帰れなくなってしまったのです。

 ガイドのニコライさんからは、チェルノブイリ事故の写真集を見せてもらい、何人かは1冊約1000円でそれを買いました。ニコライさんは大学で観光業の勉強をしたのですが卒業後も仕事がなかなか見つからず、この退去地域ツアーガイドの仕事は経験なしでもすぐに働けて、また、住居や食事が完全に無料になるという好条件の仕事なので、この仕事をしているそうです。一カ月に15日間ここで働き、残りの15日間は完全に違う場所にいるということです。このエリア内での仕事は、すべてがこのようなシフト制になっているとのことです。

 ニコライさんに、ピースボートの船のパンフレットと福島土産の起き上がり小法師のセットをお渡しして、お別れしました。

(文・川崎哲)

★関連報道
共同通信 2012.4.3 非核特使チェルノブイリへ 広島、長崎の被爆者9人
http://www.kyodonews.jp/feature/news05/2012/04/post-5243.html

共同通信写真ニュース 2012.4.3 非核特使チェルノブイリへ 広島、長崎の被爆者9人
http://www.47news.jp/news/photonews/2012/04/post_20120403100503.php

共同通信写真ニュース 2012.4.3 非核特使チェルノブイリへ プリピャチを視察した一行
http://www.47news.jp/photo/398620.php

Kyodo April 3, 2012 A-bomb survivors visit Chernobyl, call for nuclear-free world
http://english.kyodonews.jp/news/2012/04/150474.html

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