4月3日午前、被爆者一行はキエフ市内のチェルノブイリ博物館を訪ねました。博物館は朝から小学生のグループで賑わっていましたが、私たちはガイドさんの案内の下で約1時間30分、たっぷりと見学をしました。1階の入口ロビーには福島のビデオや日本へのメッセージがあり、2階の展示場に向けては前日に訪ねたチェルノブイリ市内の公園同様、事故で廃村になった村の名前を書いた標識が両脇にずらりと掲げられていました。

チェルノブイリ博物館の前には朝から小学生が

入口フロアにあったのは、日本語での福島へのメッセージと、福島のビデオ上映

展示場には当時の労働者の様子、避難した人々の生活にまつわるもの、世界に広がった放射性物質の拡散図、労働者や子どもたちの顔写真などがびっしりと並べられていました。ガイドさんは、放射線の影響は作業にあたった労働者、避難した人々、土地に残った人々そしてそれぞれの子どもたちにもたらされ、主に甲状腺、免疫、血液に影響したと説明しました。


犠牲になった人たち。亡くなった人には「放射線マーク」がついている
事故後スウェーデンや米国の新聞が大きく報じたのに対して、ソ連の新聞発表はとても小さなものであるという対比もあり、また、いかに当時のソ連政府が事故後に至っても原発の安全性を強調していたかが、当時の新聞の掲示によって明らかにされていました。

展示の中でも一同の関心集めたのが、事故後に「除染」に従事した人々-主に兵士たちでした-の様子を写した写真やビデオです。当時の貴重なビデオが残されていました。4号炉の爆発に伴い、同じ建屋の3号炉の上に多くの黒煙などがまき散らされました。彼らはそれをスコップで除去する作業を手作業で行っていたのです。1分交代や40秒交代といったシフトもあったといいます。これらの作業はロボットによって試みられましたが、ロボットではやりきれず動かなくなってしまう場合も多く、人間がかり出されました。彼らは「バイオ・ロボット」(生きたロボット)と呼ばれたそうです。



4号炉を封じ込めるための石棺を作る作業は、ソ連中からの人々計9万人が参加して206日間に完成されたそうです。参加した労働者らはその壁に自分たちの出身地を書き込んだのですが、その様子の写真や、それを模した壁が展示されていました。
館内ではまた、避難者の様子やうち捨てられた村の様子を描いたビデオ、爆発の様子から石棺ができるまでを描いたアニメーション映像が流されました。広島の原爆資料館にある爆心地周辺の模型と同じくらいの大きさで、原発周辺の地図模型が展示されていました。
嬉しいことに、水先案内人としてイタリア~ギリシャ間に乗船したチェルノブイリの汚染問題の専門家で環境コンサルタントのヴォロディミール・ティッキー(Volodymyr Tykhyy)さんが午前中の博物館訪問に同行してくださいました。一行は、キエフ在住の彼との再開を祝し、一緒にお昼ご飯を食べました。

博物館の見学後、ヴォロディミールさんは「原子炉の事故そのものによる被害よりも、その後の指導者たちの間違った判断や命令によって多くの人たちが不必要な被ばくを余儀なくされた」ということを強調しました。とりわけ原子炉の近くでのスコップによる「除染」作業などは、得られる効果はほとんどなく、むしろ大量の被ばくを招くことになってしまったというのです。軍が上空から鉛を投下したというのも、効果はなくむしろ害だけであったとヴォロディミールさんは批判します。そして、チェルノブイリ博物館には、このような、大量の被ばくを生み出した背景にある問題と責任に関する解説が十分ではないとも指摘していました。
昼食の席でヴォロディミールさんは諸外国からウクライナへの支援例に触れ、単に外から支援を持ち込むのではなく、地元の医師をトレーニングするとか、医師をウクライナ現地に派遣し住まわせて行うような取り組みが重要だと語っていました。その点で、スイスの医療者グループが優れた先例を作ったそうです。
なお、博物館の展示の最後の方には世界各国からのチェルノブイリへの支援の様子が特集されていましたが、その中で日本は目立っていました。博物館そのものに対して日本の援助(ODA)が使われていることが明示されていましたし、チェルノブイリ支援を行っている日本のNGOの多さも顕著でした。
同様に、展示の最後のところでは、広島・長崎についてもかなりのスペースが割かれていて、原爆投下やその影響に関する資料がありビデオが流されていました。チェルノブイリ原発事故で放射能によって亡くなった方々の写真には「放射線マーク」がつけられているのですが、広島の佐々木貞子さんの写真に同じ「放射線マーク」がつけられているのが印象的でした。

この博物館には毎年7万人以上が訪れるが、福島の影響もあってか昨年は10万人以上が来訪したそうです。日本からの訪問者も増えているとのことです。

廃村になった村の名前の標識をくぐって階段を下りていく

ヴォロディミールさん、ありがとうございました
一行は昼食後、バスでベラルーシに入り夜遅くゴメリのホテルにチェックインしました。途中国境をこえる入国審査で約2時間待たされるという大変な長距離移動でしたが、なんとか無事到着しました。
(文・川崎哲)