こんにちは。
ピースボートの野口香澄です。
5月18日はピースボート2寄港地目の到着、シンガポールです。
このシンガポールの寄港地からおりづるプログラムこと、証言の航海が始まっていきます。
シンガポールはピースボートのクルーズにとって欠かせない寄港地です。もう70回ほど寄港しており、そこで過去乗船者の多くの方々がシンガポールの文化や歴史を知っていきました。
今回、70回目にして初めて、おりづるプロジェクトで外務省に訪問することになりました。
外務省への訪問の目的は核兵器禁止条約への署名と批准を要請するものです。
7月7日核兵器禁止条約が制定される際の各国の投票でシンガポールは唯一の”棄権”を投じています。
シンガポールの国としての考えとしては、ASEANの一員で東南アジア非核地帯条約に加盟をしています。
その中で、外務省の方とどのようなお話が出来るのかとても興味深く楽しみにいきました。
外務省にて受け入れをしていただいたのは、「核拡散防止・核と安全保障部門」の担当官の方2人です。
Noelle TamさんとTeo Tze Ernさんです。
外務省の敷地内は写真が禁止だったため、文章でそのときの様子をお伝えします。
核拡散防止・核と安全保障部門の担当官の方は20代後半で私とそんなに年齢も変わらない方でした。
担当官のNoelleさんは6月の核兵器禁止条約の交渉会議にも参加しており、被爆者の話も聞いたことがあり、核廃絶の大切さを理解していると最初に話しをしていただいた後に、おりづる参加者を代表として上田さんに短いスピーチをしてもらいました。
上田さんはご自宅から持ってきた被爆瓦も目の前で見せながら、原爆の威力・被害というのを訴えました。
また、核兵器禁止条約が7月7日に採択されたとき、深夜先輩の被爆者の顔が思い浮かべると涙が止まらなくなると言葉を詰まらせながら涙ながらに話しをしてくれました。
シンガポールに到着した朝にベトナムが核兵器禁止条約に批准したというニュースが出てきました!
そのベトナムの一例をとりシンガポールはなぜ”棄権”という方針をとったのかを伺いました。
Noelleさん曰く、シンガポール政府は核兵器禁止条約への署名や批准に関しては慎重な姿勢を取っていると。
核兵器禁止条約に批准することで他の条約への違反行為をしてしまわないかというのを研究しているとおっしゃっていました。
いつ頃を目安に署名・批准を目指しているなどの明言は避けていますが、核廃絶への道が必要である、そのためにピースボートのような活動がとても大事であるとお話をしてくれました。
バランス外交というべきシンガポール政府の考えではないかと思いました。
しかし、今回の被爆者との出会いがシンガポールの11ヶ国目の批准国になれるように訴えていけたと思います。
長崎被爆の倉守さんは「長崎を最後の被爆地になるように、微力ながらも証言活動をし、核廃絶へむかっていきます。」と伝えました。
少し緊張していた皆さんですが、終わってバスに戻ると皆さん、安心した様子でした。
「話しが出来て良かった」「色々話せて良かった」などポジティブな感想が出てきました。
午後、ランチの後に国立博物館に行きました。
そこは、シンガポールの歴史が分かる博物館であり、戦争のブースでは日本がシンガポールを占領した時「昭南島」と名乗らせていた時期のことが詳しくかかれており、日本の戦争時の加害について学びました。
歴史の話しで日本が戦争時の加害については知っていても、直接占領していた国の博物館で遺品や文献で改めて知る機会はないので、皆さん、ガイドさんの話や資料などを熱心に見ていました。
博物館の後は戦争記念公園に行き、血債の塔を見に行きました。
みなで黙祷を捧げ、この場は後にしました。
最後はシンガポールの象徴でもあるマーライオン公園に行き、初のおりづるプログラムは終了しました。
台湾とシンガポールの2寄港地とも日本の戦争時の加害について学ぶ旅になりました。
「台湾とシンガポールも権力者の元で血を流し多くの犠牲の上に今がある。日本も核の傘から脱却し、核兵器禁止条約に署名しないと世界から恥ずかしい思いをすると危機感を覚えるように追い込みたい」と長崎被爆の倉守照美さんがおっしゃっていました。
次はコロンボです。
どのようなプログラム・出会いに繋がるか楽しみです。
ピースボート 野口香澄
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