2008年_第1回ヒバクシャ地球一周(第63回ピースボート)

バルセロナ紙に紹介された中村キクヨさん

国連代表団の4名は、11月1日、ピレウスに停泊中の本船に無事に戻った。

その1人、中村キクヨさんが代表団として訪れたバルセロナにて、『LA VANGUARDIA』紙にインタビューされた記事 の日本語訳を紹介する。同紙はバルセロナでもっとも読まれている新聞の一つで、この人物欄(1面)は、ときどきの注目すべき人の経験、視点、考え方などを紹介するコーナーだ。

2008.10.24 LA VANGUARDIA

中村キクヨさん

「私は息子を、毒入りの私のお乳で育てたの」

102人のヒバクシャが、核廃絶を訴えるため、日本のNGOピースボートに乗って世界各地を回っている。
バルセロナでは、平和財団などが彼らの活動を支持し、代表団を受け入れた。

彼らの歩んできた歴史を知ることにより、その恐怖は、私たち誰にでも降りかかりうることを知る。
にも関わらず、それが役に立つことなんて一つもない、と言うことを実感する。
彼ら(ヒバクシャ)が、あの恐ろしい虐殺について真実を語り始めるまでに半世紀がかかった。
「それぞれが沈黙の中で苦しんでいたの」
中村さんが私に説明する。
「本当のことを言ったら、差別を受けてしまうから。日本ではこの時代になっても、ヒバクシャは、背を向けられる存在のままだけれど」

中村キクヨさん
84歳、長崎県出身。19歳で結婚、3年前に連れ合いが他界。
2人の子どもと5人の孫に恵まれる。

「核保有国が増え続けている、何かしなければ。
私たちは、戦争で悲惨な経験をした。いまこそ声を上げなけれななりません」

「今でもよく覚えています。1945年8月のよく晴れた日。朝日が昇り、何度
か目覚ましが鳴りました。生まれたばかりの我が子を抱いて、防空壕を出たり
入ったり。きれいなおむつはなくなり、家の庭にあった洗い場へ出たところでした」

-そこで悲劇が?
「突然強く白い光が差し、ひどいうめき声を聞いたとたん強い風に吹き飛ばされ
る。即座に立ち上がって、走って家の中にいる子どものところへ。家に入ると、
床は一面ガラスの破片。足の踏み場もなかったのです」

-子どもたちは?
「母が体を張って守り、彼らは助かりました。私たちは当時、爆心地から4キ
ロの田舎に住んでいました(そのために被害が少なくて済んだのかもしれませ
ん)。叔父や叔母、姪っ子たちと一緒に暮らしていたのですが、その瞬間、
彼らのうち5人が死んだのです。

負傷者の集団が到着したのは、それから少しあとのことでした。」

-それは誰ですか?
「長崎大学医学部の学生たち。その様子と言ったら、見るに堪えないものでし
た。顔のない人、内臓がむき出しになっている人・・・」

-何かしてあげたのですか?
「私たちの連れ合いたちはみんな戦地に行っていたから、残っていたのは女性だ
けでした。負傷した若者たちは、水を欲しがっていたけれど、リーダーが水を与えるなって。
あまりにかわいそうだったので、隠れて彼らの唇を水でぬらしてあげたの。」

-それで?
「そのリーダーは正しかった。水をあげた瞬間、彼らは死んでしまったのです。
でも、目を閉じて、私たちに「ありがとう、お母さん」と言って死んで行きまし
た。それは地獄だった。長崎平和公園にはその大虐殺を忘れないように、噴水
(水の象徴)をつくったのです。」

「目を閉じると今でも、彼らの、形も分からなくなってしまった顔を思い
出すのです。私は当時、2人目を身ごもっていて、成人後、数年前に白血病で死
んでしまいました。その子のお嫁さんに、私のせいだと責められて、とても辛
かった・・・」

-それは無知がゆえですね。
「私にはその理由が分かっていたのです。お医者さんは、私のお乳には毒があったといい、
彼はそれを飲んで育ったのです。でも、生き残った人々は、それが放射能の
影響で、まして長期間作用するということを知っている人なんていませんでした」

-お嫁さんはその後理解してくれたの?
「病気になった連れ合い(私の息子)を置いて、出て行ってしまいました。被爆
の影響は次の世代にも引き継がれてしまうのです。私はそれを隠していたけれど」

-どうして?
「ヒバクシャでいること、生き残りでいることは、悪であり、汚名をきせられる
ようなものでした。被爆者の子どもと結婚したがるひとなんて、一人もいません
でした。だから、それを自分から言う人なんていなかったのです。近年まで、政
府は原爆の被害をうけた250,000の人々の生活を保障することはなく、たった
8%の人しか原爆症を認められていなかったのです」

-被爆後の生活はどんなものだったのですか?
「最初の数日間で、長崎では73,000人、広島では150,000人が亡くなりました。
その後7年間、10家族がひとつのキャベツを分け合うような、極貧のなかで生
きのびてきました。、アメリカ人が食料を送ってきました。でも、だれもそんな
残忍な人たちが送ってくる食べ物には手をつけませんでした」

-原爆の話は、それ以来しなくなったのですか?
「市民は、落とされた爆弾がが原子爆弾ということを1年半も知らされていな
かった。軍隊だけがそれを知っていたのです」

-被爆者の方たちが組織を作り始めたのはいつ頃ですか?
「政府に対し、薬などの支援要求をするために犠牲者たちが集まったのは被害を受けた3
年後。支援がなければ、お金がないひとは死んでいくだけだったから」

-あなた自身はどんな後遺症が残ったのですか?
「被爆をしたのは21歳のとき。25歳のときに子宮を取り除き、その後すぐに甲状
腺に問題が見つかりました。治療をしたけれど、その影響で髪の毛が抜けきって
しまいました。

でも、(原爆の)話をしようと決めたとき、それは私だけのためではなく、被爆
による体の異変をもつ全ての人ために、その影響が次世代にもつながるというこ
とも伝えたかったのです。

戦争が終わると、私の連れ合いは再び自動車工場で働き始めました。それでも私
たちは裕福にはなることなく、海から塩を採り、野菜やお米と交換してもらうた
めに遠い村まで足を運んだのです」

-世界のさまざまな悲惨な虐殺について映画化されているけど、広島に関するも
のがないのはなぜでしょうか?
「日本国家はこの暗い歴史について公表したがらなかったのです。被爆者の恐怖
は、日本でもまだ生きているのです」

-記録はのこっていますか?
「写真
や資料、個人の日記などの多くは、アメリカ人に持って行かれてしまいま
した。アメリカ合衆国は、広島と長崎に2つの医療研究センターを作ったにも関
わらず、実際に起こったこと教えてくれなかったし、そして私たちの回復のため
になにもしてくれない。ただ研究を行い、私たちの放射能の効果を調べただけ
だったのです」

(翻訳:ピースボート)

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