10月31日から11月14日の15日間、おりづるプロジェクトから4名の代表団が、本船に先立ちエクアドルおよびベネズエラを訪れた。その間、既にお伝えしているとおり、エクアドルでは副大統領との面会、ベネズエラでは地元メディアの取材攻勢、ラグアイラ市長による平和市長会議への署名、文部大臣との面会などさまざまな活動を行った。
そこから11日目の11月25日、モナリザ号はようやく15番目の寄港地であるベネズエラ・ラグアイラの港に入港。まずは初日の午前中、港から徒歩で10分ほどのところにある港湾局文化センターへ移動。我々を待ち受けていたのは、地元の老人会の面々。60歳以上が参加するいわゆるお達者クラブのような地域の集まりで、5グループおよそ60名ほどがお揃いのTシャツを着て歓迎してくれた。
港湾局などベネズエラ側からの挨拶が終わり、おりづるからは森田和之さん、讃岐一枝さん、井黒キヨミさんが被爆体験を語る。讃岐さんは「自分は運良く火傷などの外傷はなかったが、子どもの頃はよく鼻血を出し、めまいも頻繁に起こした。髪の毛もごっそり抜けたが、今こうしてあるのは平和だから。これからも平和の尊さを訴えたい」と話した。
その後、老人会からの詩や歌の発表と続き、「チュチュア」という手足を使った創作ダンスをその場の全員で行う。お返しに日本側からは船内でも何度か行っている「長崎ぶらぶら節」を披露すると、ノリのいい現地の人たちが次々に踊りに加わり、盛り上がりは最高潮に。最後にヒバクシャを代表して村越澄子さんがお礼の挨拶の中で、広島のサダコ像と折り鶴との関係に触れ、平和のシンボルである折り鶴を老人会の人たちに1羽ずつ渡した。会場では地元の人たちが、壁に設置した原爆の写真パネルを熱心に見たり、用意したメッセージバナーに平和のサインをする姿が見られた。
折り鶴について説明する左から讃岐一枝さん、村越澄子さん、井黒キヨミさん
創作ダンス「チュチュア」を踊るおりづる参加者と地元老人会の面々
いったん船に戻り午後からは、船内で地元メディア向けの記者会見。冒頭、前回のおりづる代表団訪問に対する歓迎ぶりに対し、ベネズエラ政府、ラグアイラ、カラカス両市などへピースボートより感謝状が手渡された。その後、竹内康三さん、平枡尭さん、大羽睦代さん、酒井美代子さんによる被爆体験と続いた。14歳で被爆した竹内さんは「原爆の生き残りとして生きて生きて生き抜くんだ、死んではいけない、死ねないという信念で生きている。2世3世も含め、原爆の生き残りが生きているということが核保有国の指導者へのプレッシャーになると信じている」と訴えた。
また大場さんは「6歳で被爆したが火傷や怪我もし、後遺症で死にかけたこともあった。同じヒバクシャの母が肝臓ガンで亡くなったことがきっかけとなって、証言活動を20年以上続けているが語り継ぐのが使命だと思う」と話した。質疑応答の後、ベネズエラの250以上の市長たちで構成されたボリーバル市長連盟のペルダノ事務局長は「平和市長会議への参加表明をしている市長は確実に増えている。連帯の精神こそが大切だ」とコメントした。
記者会見に出席した左から竹内康三さん、平枡尭さん、大羽睦代さん、酒井美代子さん
船内の別の場所では、ユース・オーケストラシステム・ラグアイラという音楽教育プログラムに参加している子どもたちを対象に、紙芝居を使った原爆の説明や、絵の具を塗った手のひらを一枚の大きな布に押し当てて鳩の形を一緒に作るなどの交流を行った。
手形で作った鳩の絵を前に記念撮影
最後は近くの広場を会場にしての友好と平和のフェスティバル。最初にユース・オーケストラシステムの子どもたちによる合唱の後、子どもたちとヒバクシャとの間で、花束と折り鶴の交換を行い、おりづるを代表して浜口千寿子さんが挨拶。
それを受けて、アレクシス・トレド・ラグアイラ(バルガス)市長が「ヒロシマ・ナガサキとは形こそ違え、ラテンアメリカの国々もスペインの帝国主義時代に大量殺戮を受けてきた。しかし長い支配からの解放後、今度はアメリカの帝国主義に取って代わった。原爆投下後も、ベトナム、イラク、アフリカ、ラテンアメリカなどと連綿と続いている。ピースボートに乗ったヒバクシャが立ち上がったように、我々も平和に向けて行動していく」と力強く宣言した。
折り鶴と花束を交換する酒井美代子さん
平和へのメッセージを訴えるトレド・ラグアイラ(バルガス)市長(中央)
その後、日本側からは和太鼓や三線の演奏、南中ソーランといった踊り、ベネズエラ側からもダンス、ラテン音楽の演奏などが披露され、夜遅くまで盛り上がった。
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