1月4日、年が明けて最初の寄港地であるパプアニューギニア・ラバウルに入港。この地は、ご存知のとおり、旧日本軍の司令部が置かれた場所であり、また数多くの戦没者を数えたところである。観光地としては未整備であるが、当時の戦跡が至るところにあるため、慰霊のために訪れる日本人が後を絶たたない。
今回の寄港地ツアーでは、ラバウル周辺にあるいくつかの戦跡を巡り、地元の人々を対象に交流を行うこととなった。
まず訪れたのは、旧ラバウル空港跡地。ここは当時「東飛行場」として日本軍のラバウル海軍航空隊の主力飛行場として使用されており、その後もラバウル空港として受け継がれたが、1994年、タブルブル山など近くにある火山群が噴火し、ラバウルの町は壊滅的な被害を受けた。そのため、この空港跡地は現在も火山灰に埋もれており、道路沿いの標識がなければそこが飛行場だったということなど想像すらつかない。飛行場跡地近くに残る旧日本軍の爆撃機と零戦の残骸を見学し、次の戦跡へ。
(旧飛行場近くにある日本軍爆撃機の残骸)
次に訪れたのは、噴火によって壊滅的な打撃を受けたラバウルに代わり発展した隣町、ココポにある戦争博物館(東ニューブリテン歴史博物館)。フェンスで囲まれた敷地内には、高射砲や戦車、魚雷、戦闘機などが所狭しと陳列されていた。その後、地元でバージトンネルと呼ばれる洞窟へ。上陸用に使われた大型発動機船(大発)を敵の爆撃から隠すために作られたトンネル内で、縦に並べられた大発が7隻、ひっそりと朽ちていた。
(ココポ戦争博物館に佇む日本軍の軽戦車)
昼食を取ったホテルのレストランが、本日の交流会場となる。
ヒバク証言に先立って、1944年生まれの中国系地元住民、ジョン・ローさんが、戦時中、中国系住民は日本軍によって収容所に送られ、自身も地下壕で生まれたこと、兄弟3人を戦争でなくしたことなど、と戦争被害の体験を語った。
次に森喜代子さんが、以前息子が住んでいたラバウルで話すことができて光栄と思いのこもった証言を行い、続いて6歳の誕生日にヒバクした藤井美津江さんが「今回ピースボートには夫婦で乗船した。ミャンマー、テニアン島と場所こそ違うが両方の父親とも戦死しているが、奇しくもテニアン島は広島、長崎に原爆投下したB29が飛び立った場所。4年前に夫婦で慰霊の旅を行ったが、あんな無駄死にもう誰にもさせたくない」と訴えた。
(ラバウルでの戦争体験を語るジョン・ローさん)
(森さん(中央)と証言する藤井さん)
その後、地元から今年79歳になるもうひとりの戦争体験者、マロンさんによる証言が行われた。ラバウルは日本軍の基地があったため、アメリカやオーストラリアなど連合軍に爆撃され被害を受けたことや、戦争の原因を作った人たちに哀しみを感じると話した。
またヒバクシャへの聞き取り調査をするためピースボートに乗船したオーストラリア人作家、ポール・ハムさんは、「このあたりでも日本軍による連合軍捕虜への虐待があった。しかし今日のこの場に、ラバウル、日本、オーストラリアの人たちが一堂に会したことは意義があり、戦争は和解する力まで壊すことはできない」と締めくくり、最後に、地元の教会所属の合唱団が賛美歌や日本の歌を披露して、終了した。
(マロンさんは日本軍のラバウル侵攻から終戦まで目の当たりにした)
(懐かしいフランク永井の歌も披露してくれた地元合唱団)
交流のあと、東部ニューギニア戦で犠牲になったすべての戦死者のために日本政府が1980年に建立した平和記念碑、そして海軍司令部地下壕跡(通称:ヤマモトバンカー)を訪ねた。平和記念碑では参加者全員が黙祷と献花を行ったが、平和の尊さをあらためて感じさせたラバウル訪問となった。
(平和記念碑では、ヒバクシャ全員で黙祷を捧げた)
この記事へのコメントはありません。