年に65日しか晴れた日がないと言われるサンクトペテルブルグですが、寄港日6月4日(金)はとても美しく晴れていました。ピョートル大帝によって造られた人工島には、壮大な建物や教会がボートの行き交う数多くの運河に映えて美しく印象的です。
当時レニングラードと呼ばれていたこの街は、第2次世界大戦中、ナチス・ドイツの一掃作戦の対象とされました。たえまない地上戦と空襲の犠牲に加え、900日にわたるレニングラード包囲戦で封じ込められ、食糧などの供給が完全に断たれた多くの市民が、餓死や病気で亡くなったのです。その合計は一説に100万人といわれています。ヒバクシャ一行は、まず戦争博物館を見学し、1941年冬から43年の長きに渡ったレニングラードの犠牲について学びました。壮絶な集団飢餓・物資困窮の状態にありながらも、レニングラードは一本の街路樹も切り倒すことも、劇場を閉めることもなかったそうです。子どもを含む市民たちが必死に都市の誇りを守ろうとした姿が記録されていました。
女の子の日記『みんないなくなって わたしはひとり』 餓死で家族が次々と倒れた
続く平和交流会では、「核戦争防止国際医師会議」(IPPNW)の若いメンバーの姿もあり、レニングラード包囲戦を生き延びた方々の証言を聞きました。教科書では当時の敵国として書かれている日本とロシアですが、戦争という大きな枠組みのなかで翻弄された、人間一人ひとりの苦しみは相通じているのだと感じました。ヒバクシャを代表して塚本美知子さんが、幸せな子ども時代が原爆により一気に崩壊したこと、そして後年にも続いた放射能の健康被害について証言をしました。両親の無念の死を伝えるために証言活動を続けるなかで、とにかく若い人に、聴いた話を自分のものとして記憶し、将来の世代にも伝えて平和な核のない世界をできるだけはやく実現して欲しいと訴え、ロシア側の証言者の方々も深く頷いておられました。
今回の交流会は、さまざまなロシアのお菓子と紅茶を用意していただき、一同びっくりだったのですが、帰り際にはまたさらにたくさんの贈り物をいただきました。そのなかでも、一番軽く小さかった、緑のリボンの切れ端。なんとこれは、ロシア政府から、生存者の方々に贈られたメダルのリボンを切って分けてくださったものでした。1945年、第2次世界大戦終戦後、レニングラード市民のうち47万人に「街の守護者」としての貢献を称えてロシア政府からメダルが贈られたそうです。そんな貴重な記念の品を、同じ平和を希求する私たちにと分けてくださった寛大な優しさに、とても胸を打たれました。
左胸に光るメダルのリボンを分けてくださいました
(小松真理子)
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