お久しぶりです、おりづるユース浜田あゆみです。
さてピースボートは中東を超え、美しいアドリア海、そして地中海を進んでいます。
被爆者3名と私自身はアウシュヴィッツ特別プログラムには参加せず、トルコ・ギリシャ(ミコノス島、ピレウス)などの港へ寄港してきましたが、どの町並みも美しく、石畳の道や生活感漂う路地などはとても魅力的でした。
続いて寄港したイタリアでは、アルベロベッロのトゥルッリというかわいい家々の並ぶ小さな街を訪れ、クロアチアのドブロブニクでは、城壁に囲まれた街(魔女の宅急便や紅の豚が元になった街という噂です)を訪れました。ヨーロッパの古い町並みの美しさを楽しみつつ、クロアチアのユーゴ紛争などに想いを馳せる時間を過ごしました。
普通の旅では出来ないピースボートでの旅は私にとって本当に刺激的です。観光地を楽しんでその土地を見ることも大事ですが、その歴史を知り、その街の人々と交流して意見の交換が出来るピースボートの旅は大変有意義な時間を私に与えてくれます。
さて、ここからはコトル(モンテネグロ)で行った証言会の報告です!
証言会場へ向かう途中に通った旧市街の入り口
4月20日には、ピースボートで初めてモンテネグロのコトルへ寄港しました。キリスト教の復活祭(日本でいうお正月くらい重要な日)という日にも関わらず、沢山の方々にお出迎え頂きました。
証言会は記者会見となり、メディア関係者も大きなビデオカメラをかついで来てくださっていました。
国営放送や新聞記者など、複数のメディアが取材に来てくれました
今回は、長崎で10歳の時被爆した三瀬清一朗さんの被爆証言と私のスピーチを聞いて頂きました。
質疑応答の時間には、メンバー全員が一列に並び、それぞれ質問に答えました。モンテネグロは女性の人権問題や差別についてが問題になっているらしく、女性の被爆者がどう差別を受けて来たか、などの質問が出ました。ほか、被爆してからこれまでの暮らしについてや、何を糧(希望)として生きてこられたか、など被爆者の方々の「人生」についての質問が多いと感じられました。
最後にとっても嬉しいサプライズ!会の終わりに平和首長会議のポスターをプレゼントしたところで、なんと「今サインしましょう!」と、その場で平和首長会議の加盟書にサインしてくださいました。これには、会場全体がビックリ!プロジェクトメンバーが見守る中、加盟してくださいました。
まだまだこれからも寄港地は続きます。めい一杯空気を吸ってこようと思います!
(おりづるユース特使 浜田あゆみ)
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■□■ここからは証言会の様子を写真で報告します!■□■
事前打ち合わせをすませ、証言会・記者会見の始まりです
この日は、日本語→英語→モンテネグロ語の二重通訳。通訳さんと協力しながら、メッセージを届けます
コトルはピースボートでも初寄港。イースターの祝日であるにもかかわらず、市の職員を始めたくさんの方がご挨拶に来てくださいました。
あたたかい受け入れの挨拶の後、いよいよ三瀬さん、浜田さんの出番です。
証言の後の記者会見では、それぞれが被爆後の人生や思いについて語りました
坂下紀子さん(広島被爆、当時2歳)
結婚時に「被爆者」であるということを打ち明けたときの心境につい
て話しました。友人の中には、被爆者であるということを理由に離婚
された方も多くいらっしゃるそうです
李鐘根さん(広島被爆、当時15歳)
在日コリアン2世である李さんは、原爆の被害に遭ったのは日本人だ
けではないこと、世界中に被爆者はいるということを話しました
服部道子さん(広島被爆、当時16歳)
人生で最後の証言だと思って、生まれて初めてパスポートを取得し
航海に参加していると話すと、会場から大きな拍手が湧きました
計屋道夫さん(長崎被爆、当時8歳)
戦後の復興についてや、平和教育の大切さについて話しました。
中村元子さん(広島被爆、当時11ヶ月)
「戦後、何に希望を持って生きてきましたか?」という質問に対して
苦しい生活の中で必死に育ててくれた親の姿が何よりの希望だったと
答えました
坂田尚也さん(広島被爆、当時15歳)
被爆後の放射能の影響について、坂田さん自身これまで数々の病気を
患ったことから、一度被爆するとその後の人生に大きく影響するとい
うことを話しました
みなさん熱心に聞いてくれました
会の終わりに、三瀬さんのところに一人の少年が。彼は、三瀬さんが被爆した当時の年齢と同じ10歳だそう。一緒に写真を撮って欲しいとのことで、記念撮影。
最後は現地の皆さんと集合写真
おしまい!
アルジャジーラでの報道はこちらです。
▼’Brod mira’ u luci Kotor
http://balkans.aljazeera.net/video/brod-mira-u-luci-kotor
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