1.ヒバクシャ証言の航海

【2月1日 毎日新聞】宮田隆さん掲載記事

2月1日の毎日新聞 長崎版に、
第6回に乗船された、宮田隆(みやた たかし)さんの記事が掲載されました。

戦争を目の当たりにしながら、
世界を飛び回りながら体感した「平和」について、
またピースボート乗船時の現地若者との交流についても掲載されています。
被爆者の方のそれぞれの人生と、地球一周 証言の航海との繋がりを感じさせられます。

是非お読み下さい!

====以下、記事全文====

刻む・戦後70年:/1 平和は作るもの/長崎
毎日新聞 2015年02月01日 地方版

刻む・戦後70年/1
平和は作るもの/長崎

毎日新聞 2015年2月1日 地方版

「戦後70年、日本で戦争がなかったのは周囲の国と平和を作ってきたからだ」

平和は作るもの。宮田隆さん(75)がそう意識するのは電機メーカーの営業マンとして世界を飛び回った経験が大きい。第4次中東戦争 (1973 年)の最中、がれきの山と化したレバノンの空港に降り立ち、ヨルダンへプラントを売り込みに行った。イスラエルとアラブ諸国が加害と被害の立 場をくるくる 入れ替える戦争を目の当たりにした。「一方的な被害を訴えることができないのが戦争。一方的な平和もない。平和を作るには理解し合うことだ」

メキシコや米国の現地法人で8年働いた。事あるごとに同僚や地域の子供たちに被爆体験を語った。妻が手作り料理を振る舞うパーティーも開き、同僚と平和や戦争について激論を交わした。

平和、という言葉で思い浮かぶ光景がある。メキシコで、副社長として1500人の従業員のうち400人を解雇せざる得なかった。彼らの退職パーティーに呼ばれ、覚悟を決めて防弾チョッキを着て出席したが、終始、陽気な会だった。米国では、現役引退を祝ってもらった時。それまで議論を 戦わせた同僚が「ピース・ナガサキ」「ノーモア・ナガサキ」と日ごろ宮田さんが語る言葉で乾杯してくれた。どちらの社員とも相互理解ができていたのだと思う。

1945年8月9日。自宅でビー玉遊びをしていた5歳の宮田少年は真っ白い光と爆風に襲われた。爆心地近くにいた親戚は焼け焦げて亡くなったと、後で父から聞いた。目にし、耳にした恐怖の記憶は鮮明に残った。その体験を伝えようと、長崎原爆「ファットマン」の実物大の模型(長さ3・3 メートル、直径1・5メートル)を使い、高校などで講演している。

2013年にNGO「ピースボート」による被爆者の「地球一周証言の航海」に参加した。核保有国インドでの交流会で、宮田さんの話を聞いた女子高校生が言った。「平和は自分たちで作るもの。国に任せてはいけない。日本には広島、長崎、福島の教訓がある。日本に行って若者と連携したい」

唯一の被爆国・日本だが、核兵器廃絶にリーダーシップを取ってこなかったことにいら立つ被爆者は多い。宮田さんは「被爆者に残された時間は少ない。平和と核兵器廃絶について連携する民間交流を進めたい」と話す。
【古賀亮至】

今年は戦後70年。戦争の記憶が薄れつつある中、県内の被爆者をはじめ、空襲被害者や遺族、平和活動を続ける人々らを訪ね、胸に刻む思いを聞いた。(原則日曜日に掲載します)

★みやた・たかし
5歳の時、爆心地から2・4キロの長崎市立山の自宅で被爆。1963年、早大を卒業し三菱電機入社。2000年に退職するまでメキシコの 現地法人副社長や米国の現地法人社長などを務めた。05年から雲仙市小浜町在住。

〔長崎版〕
====以上====

ピースボート 中田智子

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