2019年_オーストラリア(第103回ピースボート)

ビキニを忘れない ~岡村啓佐さん~

ピースボート103回オセアニアクルーズの、アデレードからシドニーまで水先案内人として乗船してくださった岡村啓佐さんは、太平洋核被災支援センターの副代表や平和資料館の副館長として学生たちに平和教育を行なっています。

岡村さんのお父さんは、昔、日本がアジアを植民地にするための戦争に参加しました。そのお父さんが88歳の米寿のお祝いの時に、孫やひ孫に向かって、「偽りの世に生まれ、偽りの教育を教わって、生まれた以上これが最高の道だと思っていた道が、最高どころか、最低にも及ばない道だった。戦争はどんなことがあっても絶対にイカン」と語ったことがずっと記憶に残っているそうです。四国の高知市に住みながら平和のメッセージを届けている岡村さんは、815日は「終戦」ではなく、「敗戦」をした日。アジア諸国にとっては解放された日でもあるからだと伝えました。「2,300万人の人々が犠牲になった戦争で、日韓の徴用工や慰安婦問題を含め、日本が加害者としての歴史に向き合わなければいけない」と訴えかけました。

東京空襲で生き残った伯父さん、その後広島に軍属として配属され広島駅の北にある二葉山に壕を掘りました。この壕に原爆投下後逃げ込み、壕に逃げ込んだ143名の名簿を作成し残していました。伯父さんは、戦争に反対し、核兵器廃絶と原爆被爆者の支援に生涯取り組んだのでした。岡村さんは、伯父さんと一緒に訪問し、支援の手伝いをしているうちに原爆に対する思いが高まり、のちにビキニ被爆者の写真集を自費出版するまで至りました。

岡村さんの出版した写真集 No Nukes

船内では写真展も開催しました

広島や長崎に原子爆弾が落とされたのは、「米国による実験であった」と岡村さんは伝えました。

米政府はマッカーサーに、細菌兵器を製造していた731部隊を戦犯免責し、実験のデータを手に入れるとともに、広島・長崎の核実験を調査を進める国立衛生予防研究所を日本政府につくらせました。3年間で小児や妊婦を含む約22万人に近い被爆者を調査させたのが、元731部隊に所属していた6名の研究員たちでした。731部隊は、毒ガスと生物兵器の使用を禁じたジュネーブ条約から、逆に生物兵器の効果の可能性に気づき、生物兵器を開発することを目的にした部隊です。

部隊では、生体実験される者たちを「マルタ」と呼び、特設監獄には、女性や子供も収容されていました。証言によると731部隊には年間約400名から600名、敗戦までの5年間に「少なくても3000名」の人が送り込まれ、細菌兵器製造など様々な生体実験が行われていました。

米国は、1954年キャッスル・テストというビキニ環礁での水爆実験を続けました。アメリカがビキニ環礁で実施した水爆実験による放射性降下物「死の灰」の実態が米公文書館で2010年に発見されました。そこからわかったことは、この実験によって世界各地の人々が内部被爆をしていたということでした。それでも、ビキニ環礁での核実験被害を、米国と日本政府は隠蔽し、「第五福竜丸」の影響だけを公表したのでした。米国が冷戦構造の中で、核開発を続けるためにはこの時点での人体への被害が広く問題視されることを避けたかったからです。

ビキニ事件から31年後、地元高知の高校生たちは、フィールドワークで藤井節弥(ふじいせつや)さんに出会いました。彼は長崎の中学校で被爆し、戦後、マグロ漁船に乗っている時に水爆実験で被ばくし、体調の悪化で入水自死したのです。元マグロ漁船員から「海が光った」「真っ黒い雲が立ち上がった」「死の灰が降ってきた」などの証言を積み重ね、高知県と共に政府に調査を求めましたが、日本政府は非を認めませんでした。2013年に、当時核実験現場の周りには、第五福竜丸以外に無数のマグロ漁船があり、多くの船員が被爆したとする記録が米国公文書館で発見されました。船員の歯を調べて、被爆による癌の発病との関係性が研究され、高校生たちの調査が立証されたのです。

ビキニ諸島での事件を日本は認めました。しかし、それまでにすでに漁師たちの多くは傷つき亡くなっていました。ご存命の方々は未だに闘病生活で苦しんでいます。

また、原子力の平和利用という名の下で、日本は原子力を国内へ取り入れてきました。その結果、ビキニ事件で持ち込まれた原子力発電所は、地震国日本の海岸を一周するかのように原発が建設され、そして2011311日を迎えました。そして、、、「原子力緊急事態宣言」はまだ発令中で解除されていないのです。

最後に岡村さんは「核と人間は共存できないことを認識すべき。歴史から学び、想像する力、権力による嘘を見破ること、そして自分にできることを意識的にやっていくことが大事」と力強く訴えかけました。そして「核兵器禁止条約が発効されれば、ビキニ水爆実験によるマグロ漁船員だけでなく、周辺国、オーストラリアや世界の核実験による被災者の救済の道が開かれます。」と言って会場の人々を励ましました。

 

翌日、講演を聞いた参加者たちによるワークショップを行いました。小グループに分かれて、気付いたことや感じた内容を共有し、それを行動として起こすためには何をすべきか話し合う時間を持ちました。「市民の意識を高めるために周りに知らせる」、「勉強会のような集まりに参加する」など、各自ができることを考えてみるよい機会となりました。

また、岡村さんの制作した学習資料DVDを使用して伝えようとする方も沢山いました。

文・写真:ピースボート 鄭銀貞(シルビー)
編集:ピースボート 渡辺里香

 

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