既にお伝えしたとおり、船がトルコ・イズミルで停泊中、おりづるプロジェクトでは2日間にわたり地元との交流を行った。一方その頃、お隣のギリシャでも我々は交流を行っていた。船が遅れて到着するすることで、予定されていたギリシャでの交流をキャンセルするわけにはいかないと、ヒバクシャの中から急遽10名を募りギリシャ派遣団を結成。イズミルより空路、アテネへと向かうこととなったのである。
都合3日間におよんだギリシャでの交流は以下のとおり。
10月16日朝、ピレウス市庁舎を訪問した訪問団の到着を音楽隊が盛大に出迎えた。身長216cmというバスケットボール元ギリシャ代表で国民的な英雄であるハナヨーラス・ピレウス市長は、おりづる訪問団や出席した市議会議員20名を前に、「ギリシャは反核のリーダーたれ」と挨拶し、反核という御旗の下に連帯しようと力強く訴えた。次に、ヒバクシャ4名による証言が続き、市長によるヒロシマ・ナガサキ議定書への賛同署名という成果も得て、音楽隊に見送られながら市庁舎を後にした。
不安な中ではじまった交流の旅であったが、ヒバクシャ一同大きな勇気をもらうことができ、素晴らしいスタートとなった。
ヒロシマ・ナガサキ議定書への賛同署名を掲げるハナヨーラス・ピレウス市長
午後からは、第二次大戦でナチス・ドイツにより多数のレジスタンスが銃殺された現場を訪れた。そこは現在ナチ虐殺記念碑が立つ公園になっているが、そこで銃殺刑を受けながらも奇跡的に生き延びたデオドロスさんの証言を聞く。今年90歳になるという唯一の生存者、デオドロスさんはヒバクシャとの邂逅を「仲間に会えた」と言って大変喜びし、それに対し10名のヒバクシャも感激し、なかには感極まって涙を流す人も。今航海中、ヒバクシャが他国の戦争被害者に出会ったのはベトナムの枯葉剤被害者、エリトリアの空爆体験者に次いで3度目のことであるが、今回、お互いの苦しみを心の奥底で共有できたことで、今プロジェクトの新たな1ページを記したと言えるだろう。
夕方からは、2グループに分かれの行動となる。
まずは、日本ギリシャ協会での交流。日本語を学ぶギリシャの若者15名と教師・スタッフ5名の出迎えを受け、4名が日本語で、1名が英語で証言を行った。また出席した彼らの多くは広島を訪れたことがあり、協会では毎年8月に3000羽のギリシャの国旗の色である濃紺の折り鶴を携えて広島を訪問しているということも判明。最後に『長崎の鐘』を合唱し、盛り上がりを見せた。
もうひとつのグループは、小学校を訪問。午後6時頃の訪問にもかかわらず、児童、教師、そして保護者の総勢200名ほどが出迎えた。紙芝居を使うなど工夫を凝らした証言を行ったが、平素から原爆、ヒロシマ・ナガサキなどに対する平和教育を行ってるためか、子供たちからは「アメリカに対する恨みはないの?」、「被爆2世、3世に影響はあるの?」などといった質問が相次いで飛び出し、原爆に対する関心の高さを伺わせた。
タブロス第5小学校での交流では質問攻めに
翌17日には、高校を訪問。訪れてわかったことなのだが、なんと高校生によるストライキが行われていた。学生主体のストライキはよくあることで、学校側と激しく対立しているわけではないのだが、その日、授業はないという。民主主義発祥の地と呼ばれるギリシャならではのエピソードだが、このままでは交流できない可能性があるため、学生側に事情を説明するとすんなりと中に入れてくれた。全校生徒約120名中、100名ほどが交流に参加し、ヒバクシャ3名による証言が行われた。質疑応答では「我々、高校生にできることは何か?」「アメリカをどう思うか?」といった質問が出て、前日の小学校同様、ここでも若者の意欲を感じることができた。
18日にはオフとなったが、交流最終日の19日には、当初の予定にはなかった詩人バイロンの名前を冠したバイロン市に赴き、平和行進を行った。これは国際平和ビューロー元副会長の計らいによるもので、おりづるプロジェクトのバナーを掲げ、「NO MORE Hiroshima ! NO MORE Nagasaki !」と書かれたプラカードを持って、バイロン像公園まで行進し、市民との交流を計った。
地元メディアの取材も多くあり、交流場所で突然のラジオインタビューが行われたり、偶然入ったレストランにいたギリシャ人夫婦がおりづるプロジェクトのことをラジオで聞いて知っていたりと、全体を振り返ると、核や平和に関するギリシャでの関心の高さと手応えを感じることができた交流になったと言えよう。
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