ヒバクシャ地球一周に長崎から参加された森喜代子さん。
とても素敵な森さんには個人的にも親しくしていただき、出会えて本当によかったと強く感じる参加者の方の一人です。
また、ラバウル(パプアニューギニア)寄港の際に証言活動を通訳というかたちでお手伝いさせていただいたのもとても印象深い思い出となっています。
さて、その森さんですが原爆が投下された当時、住吉トンネル工場で働いていたというお話を伺っていたのですがこのたび、そのトンネル工場を訪ねていかれたというお話をしてくださり、その工場の跡地の写真も併せて送ってくださいました。
以下、森さんのお手紙から少し引用させていただきます。
「(省略)トンネル工場まで同伴して頂きました。三菱兵器は多数の工場が散在していましたが、この住吉トンネルは私の14才の青春とは程遠い戦争の体験です。町の様子はすっかり変わり2月14日通院の帰途住吉に降り立ち、記録をたどり探すのですが全くわかりません。ご存知の如く不自由な足では限界を感じ最後に尋ねたご夫婦で分かったのです。それは余りにも無惨なトンネル入口3基が見えました。63年振りの対面で恋人に再会といっても過言ではない衝撃でした。そこには復旧工事のための作業小屋も建てられ着工するばかりで嬉しく進行状況をレポートすることが今後の私の課題だと思ったのです。」
住吉工場という言葉を初めて耳にした方もいらっしゃるかもしれません。インターネットではこのような情報が出てきます。
三菱長崎兵器製作所 住吉トンネル工場
戦時中の1944年ごろから、空襲を避けるため、現在の長崎大学文教キャンパスにあった三菱長崎兵器製作所大橋工場の一部移設先として掘られた。高さ約4メートル、幅約4.5メートル。長崎市の住吉町から赤迫2丁目までの全長約300メートル。6本のうち、4本が完成。2本で魚雷などが製造されていた。東側の出入り口は長崎原爆の爆心地から約2.4キロ。原爆投下時は朝鮮人労働者や勤労動員の生徒ら約1800人が働いており、出入り口付近にいた人たちが爆風で吹き飛ばされたという。
西日本新聞 ワードBOXより(http://www.nishinippon.co.jp/wordbox/display/4973/)
原爆の体験を考える時、受け継ぐべきはヒバクシャの体験と証言だけなのでしょうか。
このような歴史が刻まれた場所、ものを受け継いでいくということも大切なのではないか。
歴史から学び、平和な世界をつくっていくために必要なことはなんだろう?と考えるとき、常に広い視野をもち取り組んでいくことが必要だと感じました。
森さんの手紙の最後にはこう書かれていました。
「来年3月までの完成まで守りたいと思います。写真でお分かりの様に重機が入れられ№3のトンネルは完全につぶされています。これは風化される我が郷里の姿でありお察し下さい。日本で最後の戦争遺構です。改めて平和の尊さと核兵器の反対を誓います。」
目立つもの、にぎやかな物、経済的価値のあるもの・・・情報やモノが溢れる社会でつい価値観がぶれてしまいがちです。
冷静に自分たちにとって本当に大切なモノを見極めたいですね。
(文:畠山澄子)
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