大変お待たせしました!! 67回クルーズで訪れた寄港地でのおりづる報告を続けてアップしていきます。
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9月1日にピースボートがベトナムのダナンに到着した日は独立記念日の前日であり、町は国旗の一色に包まれ、祝日の準備に忙しく取り関わっていた。
現在この小さな漁業町であるダナンでは次のシンガポールと思わせるような急激な成長をみせている、しかしピースボートの地球一周プログラムに参加している「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」プロジェクトの参加者たちを魅了させたのはダナンの歴史であった。
ベトナム戦争中、ダナンはベトナム南部で最大なアメリカ軍の基地となり、枯葉剤が使用された所、また保管された所として、ダイオキシンが大量に残されている場所と指定されている。
ダナンの観光中に10名の被爆者らと3人の日本人高校生らが訪れたのは元南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)のゲリラ兵であったトラング氏の家庭だった。そこで参加者らはベトコン兵士らが戦争中に隠れ家と使用していた穴を見学した。当時、兵隊らはトラング氏の居間から穴に入り、地下路を10メートルをはって隣の畑から脱出していた。
次に被爆者を含む参加者らたちは、ダナンにある枯れ葉剤被害者たちのリハビリテーション施設を2軒訪問した。このセンターはダナン枯葉剤被害者支援協会(DAVA)により運営されている。被爆者らはベトナム戦争中にアメリカ軍が枯葉剤を使用した40年後の今でも、身体や知的の障がいで悩ませられている人が存在することを学んだ。
ピースボートはDAVAとは長年わたる関係を続けており、最近3件目の障がい者リハビリセンターの建設費用として12万米ドル(110万円)を寄付した。寄付金は「チェンジ・フォー・チェンジ」というピースボートが地球一周の旅で訪れた各寄港地を出国する際に参加者から余った小銭を集めるプログラムで成り立った。
被爆者プロジェクトの象徴は折り鶴である。被爆者と3名の高校生らはこの日本の伝統的な文化を共有することにより言語の壁を越えて交流を果した。被爆者の指導のもとで折り紙を折るダナン市の子供たちは笑顔に満ち溢れていた。
昼食前には、被爆者の西岡洋さんが原爆が長崎に投下された際の経験を話した。
1945年当時中学生だった西岡さんは、目がくらむような白い閃光と爆風を受け、意識を失った。西岡さんは、リハビリセンターに集まったベトナムの報道陣と人々に向けて、原爆からくる放射能の被害が、枯葉剤と同じく長期に渡ることを訴えた。そして日本とベトナムの人々が協力して、このように恐ろしい武器を廃絶するべきだと語った。
リハビリセンターでは、ピースボートが東北アジア事務局長を務める「紛争予防のためのグローバルパートナーシップ」(GPPAC)のグループも加わった。
67回クルーズの船内でメディア・トレーニング・プログラムに参加しているメンバーらも、現地の子供たちと交流し、被爆者の証言を聞いた。GPPACメンバーの1人であるセルビア出身のマハ・ビタス氏は、バルカン紛争の自身の体験も踏まえ、核廃絶だけではなく全ての紛争の予防を呼びかけた。
ツアーの最後にベトナムの歴史博物館を訪問した。ここでは過去のベトナム人の諸外国に対しての抵抗運動を展示している。展示品を通して、ピースボートの参加者はどれだけ人類を滅ぼすため、努力と金額が費やされたか知ることができた。ツアー後に一人の被爆者の参加者がこんな悲惨な状況の中での軍事力の見せつけは意味がないと述べた。
参加者らはダナン市内のツアーで、ベトナム紛争によって排出された残留物質の説明を受けた。
ここではホーチーミン博物館にて、ベトナム戦争で使用された大砲を見学する様子。
「67回ピースボート、クルーズレポート(シメルナ・ブレイク著)より翻訳」