1.ヒバクシャ証言の航海

藤森さんと松浦さんによるギリシャでの証言会

第73回クルーズではギリシャからチュニジアまで、お二人の被爆者の方、藤森俊希さんと松浦秀人さんに乗船頂いていました。ギリシャの反核医師の会の招きでギリシャのキパリシアという町で証言会を開いたところ、証言会には町の人口8000人のうち、300人以上が集まるという関心の高さでした。

ギリシャや証言会の雰囲気はこちらから

今回は、お二方がされた証言のまとめたものをご紹介したいと思います。

藤森俊希さんは1945年8月6日の広島市内の様子や原爆が投下された瞬間、被爆された方々の様子について話されました。当時の状況を話した後、「原爆は生き延びた者にも、生涯ぬぐえぬ傷を心と体に刻み付けました」と話されました。8月9日には長崎にも2発目の原爆が投下され、年末までに両市で21万年もが原爆によって命を失いました。
「地獄を語り継ぐ」ーーー藤森さんが被爆されたのは、1歳4ヶ月の時で被爆の状況を記憶するには幼かったのですが、それでも被爆体験を語るのは、「母や姉の伝承が体に焼き付いているから」。過去に被爆体験を語る運動があったわけではありません。あの地獄を二度と思い出したくないと口を閉ざす人も少なくありませんでした。被爆者であることが分かると結婚できないという悲劇も起こり、口を閉ざさざるを得なかった人もいました。それでも藤森さんのお母さんは二度と原爆を落とさせてはならない、二度と同じ体験を子供にさせてはならないと、涙を流しながら語りました。

またお姉さんは妹の死を悔やみ、死を語り継ぐため「木の葉のように焼かれて」と題した手記を書きました。女子生徒が戦争に動員され、弾丸を作り、兵隊の下着をつくり、何も考えることなく戦争へ突き進んだ結果の被爆、なぜ声をあげなかったのか、真実を見抜く力をつけること、二度と戦争をさせないための決意を綴っています。

昨年5月(2010年5月)に、国連で核不拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれました。被爆者で組織する日本原水被爆者団体協議会は、各国政府に核兵器のない世界へ国際交渉を一日も早く開始するよう求めるため、要請団を派遣し、藤森さんはその一員としてニューヨークに行かれました。今は亡き長野県原爆被害者の会 会長前座良明さんの遺志を継ぐ思いがありました。「子や孫を被爆者にしてはならない」「平和は闘い取るものだ」など前座さんの言葉に、「今日の聞き手は明日の語り手」というのがあります。藤森さんがその話をアメリカの高校生に話したところ、「明日の語り手になるためにはどうしたらいいのか」という質問がありました。藤森さんは、「今日聞いたことで心が動いたら、周りの人に話して欲しい。もっと知りたかったら、日本被団協のHPを開いて欲しい。勉強しましょう、私も勉強中です」と話されました。

オバマ大統領は、米国大統領として初めて、核兵器を使用した唯一の国として核兵器をなくすための道義的責任について表明しました。アメリカの生徒が「明日の語り手」になるとき、核兵器廃絶への圧力はいっそう強まり、地球上から核兵器をなくす希望が現実へと大きく転換するだろう、と期待されています。最後に、『私は「今日の語り手」として頑張ろうと心を新たにしています』と証言を締めくくられました。

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松浦秀人さんは、日本を襲った地震と津波の災害へのご心配と復興へのご支援を寄せて頂いていることにお礼の意を示しました。松浦さんは1945年8月6日、広島に原爆が落とされた当時、胎内に居た胎内被爆者なのです。原爆を落とされ、直接被爆した人々が苦しんで亡くなっていったことと、誘導放射線のことを話されました。巨大な規模の放射線を浴びると、あらゆる物質が(土地も鉄もコンクリートも人間の身体さえもが)二次的に放射線を発します。また原爆の爆風が舞い上げたチリなどの放射性降下物からも放射線は出されます。この誘導放射線と放射性降下物とを総称して、残留放射線と言います。救援に駆けつけた人々は、この残留放射線に冒されたのです。原爆は、炸裂時にはそこに居なかった人々さえ殺傷したのです。核兵器は、人類がこれまで経験したことの無い、新しい形の残虐兵器なのです。しかも、核兵器・放射線が、数十年にわたって人間の身体を蝕み続けている事実、核兵器は怖ろしい兵器であり、人類とは共存出来ない悪魔の兵器だということを、みなさんに知って頂きたいのです。ーーーそう松浦さんは語ります。

辛うじて生き延びることが出来た被爆者も、その多くが健康を奪われ、入退院の繰り返しで、働くことが出来ず収入が途絶え、病苦と極貧の生活に行き着きました。にもかかわらず、アメリカ占領軍は軍事機密として原爆被害の報道を禁止し続けました。その結果、被爆者の凄まじい体験と苦しみは、国内外の人々に知らされないまま年月は推移しました。
局面を変えたのは、1954年3月の第五福龍丸事件でした。第五福龍丸事件とは、南太平洋上のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による船員の被災と大量のマグロの放射能汚染事件で、日本国民の多くは、この事件で初めて放射線・放射能の恐ろしさを知ることになりました。

この事件を契機に、翌年の1955年に原水爆禁止大会が広島で初めて開催され、今に続く原水爆禁止運動が生まれたのです。そしてその運動に励まされて、それまで社会の片隅でひっそりと生きていた被爆者たちが、日本の各地で被爆者団体を結成し始めました。1956年には日本原水爆被害者団体協議会を結成しました。翌年の1957年には「原爆医療法」という法律を制定させることに成功しました。日本政府はこの法律の制定まで、原爆投下後12年間も、病気と貧困に苦しむ被爆者を放置し一切の援護措置を講じなかったのです。
『私たち被爆者は、「ノーモア・ヒバクシャ」を合言葉に、運動を進めてきました。報復の連鎖を断ち切ること、人類から再びヒバクシャをつくり出さないことを願って活動しています。核兵器は悪魔の兵器であり、人類とは共存できません。核兵器の廃絶のために力を合わせましょう』と松浦さんは締めくくりました。

原子物理専門博士 カチャロス氏 によるお話

環境汚染に大きく関心を寄せる市民が急激に増えています。1945年にウランとプルトニウムの原爆が広島と長崎にそれぞれ投下され、一世ヒバクシャだけでなく、二世、三世と症状が発覚されることが多く奇形児の誕生も多く見られています。1986年のチェルノブイリ原発事故から25周年の
今なお、奇形児の誕生は続き、がん発症などの被害は続いている状態です。原発は長期間堰堤(えんてい)し、健康に影響し続けます。原発・原子エネルギーは平和的でなく、人々に何年も影響し続けます。原爆を受けた唯一の国である日本が、各地の沿岸部53箇所に原発を作ったというのは、信じがたいことです。地震国であるトルコでも原発をつくる予定があります。トルコは原発をつくるのを反対しなければなりません。通常工場の事故であれば、一時の火災あるいは爆発で収束しますが、原発はその時だけでなく長期期間堰堤(えんてい)し、健康に影響し続けます。

マリア リティロプールゥ女医によるお話

今年でチェルノブイリの事故から25年目にあたり、1985年に大きな核廃絶運動が行われました。放射能が生命に及ぼす大きな影響は被爆一世だけでなく二世、三世と延々と続いていくのです。チェルノブイリの後遺症は今だ23%の奇生児誕生などという形で引き続いています。ウクライナ、西ロシアでは白血病者がさらに増加が進むと表明されています。福島原発事故で各国から参加者による抗議デモが行われましたが、放射能物質による被害は各種がん、乳がん、前立腺がん、早急性老化、奇生児などの症状が多く、ギリシャでも特にそれらを恐れ心配されました。被爆者の症状は常に監視されて、チェルノブイリの放射線物質の放射は10日間多く測量されましたが、福島の場合は9ヶ月以上引き続くであろうと推測します。

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