1.ヒバクシャ証言の航海

似島に行きました。

今回は、広島にある「似島(にのしま)」の報告です!
広島でのオリエンテーションを終えてから、
小谷さんと三宅さんとともにユース3人も似島巡りツアーに参加しました!


(似島からの景色)

ここ、似島にも戦争の爪痕が多く残されています。
実際に見たいくつかの場所を紹介します。

まずは、似島の豊かな自然の中を、みんなで歩き
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( 似島の藪の中 )


薮の中に入っていき、今もある似島学園のすぐ近くの
弾薬庫跡地に訪れました。
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( 似島 弾薬庫跡地)

当時は、50cmくらいの壁がある建物があり
そこにたくさんの戦場へ送り出す弾薬が保管されてました。
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( 似島 弾薬庫跡地)
 

弾薬庫は周囲を土塁で固め、樹木でカモフラージュし、その中に弾薬を保管する倉庫を建てた造りになっています。

壁はぶ厚いコンクリート。

屋根は薄く、もし弾薬が爆発しても
上にむけて吹き上げるように作られていたそうです。
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( 似島 弾薬庫跡地)


こちらは、弾薬庫通用門跡。
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( 似島 弾薬庫通用門跡)


トンネルになっていて、沖についた船からそのままトロッコに弾薬を積んで乗せて

弾薬庫に運んでたそうです。

弾薬庫の土塁の上には、沖の海と弾薬庫の周囲を監視するための

「見張り台」が、いくつかありました。
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( 似島 旧弾薬庫歩哨所)

当時は、小銃を持った兵士が日夜を問わず、弾薬庫周辺の警備に当たってたそうです。

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(似島 弾薬庫歩哨所に入る三宅さん)


ひと1人がようやく入れるほどの狭いものです。
入ってみる、三宅さん。
もう取り壊されてしまったものとはいえ、
この草原の中に、戦争当時使用していた弾薬庫があったのです。

また、原爆に関するものもいくつか残されています。

1945年8月6日。午前8時15分。
広島の町に1発の原子爆弾が投下されました。

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( 当時、負傷者が運ばれた実際の桟橋で )
午後10時頃から、広島市中の負傷者の方々が、続々と船で似島へ運ばれてきたそうです。
その負傷者の方々は検疫所と寺院へ収容し、似島の町民が救護活動に従事しました。
その第二検疫所は今、似島臨海少年自然の家になっています。

少し奥へ進むと、公園の横に馬匹検疫所焼却炉跡がありました。
ここは被爆当時、亡くなられた方を焼却するのに使われていたそうです。

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( 馬匹検疫所焼却炉跡 )

私はこの馬匹検疫所焼却炉跡を見て、
去年ポーランドに訪れた際に見学したアウシュビッツ強制収容所のガス室跡を思い出しました。

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( アウシュビッツ強制収容所内のガス室跡 )
当時、負傷者に水を与える為に使われていた井戸や、沢山の死体を燃やす燃料がなくなり防空壕に山積みに積みコンクリで蓋をしたまま今も開けられていない防空壕もあり衝撃的でした。

爆心地から約8kmも離れている似島でも
ピカッと空が光り、すさまじい衝撃の爆風が襲いました。
爆風によって、家屋が半壊したり、窓ガラスが飛び散ったりなどの
被害が報告されましたが、熱線などによる犠牲はありませんでした。
しかし、当時、通勤などで外を出歩いていた人々の多くは負傷しており
人口約1500人あまりの似島では、被爆1ヶ月後には108名の死者が出たと
記録されています。

市内で原爆の犠牲となった方のうち似島まで輸送された負傷者は
1万人以上と言われていますが、正確な数字は定かではありません。
そして、その多くの方が命を落としました。

負傷者の救護を行ったのは
ほとんどが似島の住人でした。
毎日毎日、被爆をした負傷者の救護を行ううちに
彼らも間接的に被爆をしてしまいました。
間接被爆したということで、住人の多くは
被爆者健康手帳を交付されています。

この救護活動にかかわった似島の住人は
被爆などの影響で170名くらいが翌年までに亡くなっています。

そして、1972年に似島中学校校庭海岸沿いに
被爆当時に埋葬された犠牲者の冥福を祈って
慰霊碑が作られました。


(似島の原爆慰霊碑)



(原爆慰霊碑の説明)


爆心地から8kmも離れたここ似島にも
「原爆」の存在がありました。
原爆の炸裂により被爆した人々だけが犠牲者というわけではなく
爆発したあとにも、たくさんの命がさまざまな場所で失われていきました。

毎年6日の付近では、似島で慰霊祭が行われます。
似島をはじめとする、いろいろな場所の「命の話」を
1人ずつ大切にして、船に乗り込もうと思います。

おりづるユース
橋本昭博
鈴木慧南
岩本麻奈美

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