みなさんこんにちは。
ピースボートインターンの鈴木慧南です。
7月11日の最後の寄港地であるハワイイでの活動の様子をお伝えします。
ハワイイは太平洋の島国として多くの文化を持って生きていましたが、
1778年のジェームズ・クックによる「発見」以降、近代化の波に飲み込まれていきます。
欧米入植者たちは産業発展のためにと、日本やアメリカを中心とする周辺国から安価な労働力を呼び寄せました。
この過程が多くの人種が混在するハワイイの複雑な文化と社会の背景の一つにあります。
近代化の名のもとにアメリカが1898年にハワイイを併合すると、軍事拠点としての開発も進みました。
今でもハワイイには基地や軍事施設が多くあります。
この軍事化は、劣化ウランなどの金属の句や化学物質による土地の汚染にもつながり人々の健康を脅かしてきました。
さらに基地に依存した経済があり、文化やアイデンティティーの破壊の問題もあります。
また、ハワイイは歴史の中でも日本と深い関わりがあります。
1941年12月7日(日本時間8日未明)、日本海軍はオアフ島の真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカ太平洋艦隊の戦艦舞台に大損害を与えました。
この出来事は「リメンバー・パールハーバー」というスローガンで長くハワイイの人々の記憶に刻まれています。
ハワイイという太平洋戦争の始まった場所に、太平洋戦争が終わったとされるヒバクシャの方が訪問しました。
この日はゆったりと証言会を行う日だったので午後からゆるやかにスタートしました。
まずにパンチボウルという国立太平洋記念墓地を車窓見学しました。パンチボウルという名前はフルーツパンチを入れるボウルに似ている事から名付けられました。
ここは第一世界大戦・第二次世界大戦・朝鮮戦争・ベトナム戦争で戦死した兵士が眠っているアメリカ軍基地専用の墓地です。
安倍首相もここを訪問しているそうです。
次にパールハーバービジターセンターを訪問しました。
ここは、太平洋戦争が勃発した流れから、真珠湾攻撃を中心に戦争の悲惨さを展示してあります。
ここの一番の特徴は実際に戦っていた戦艦がそのまま浮かんでいることです。
奇襲攻撃を受けたその日、アメリカは30隻の戦艦が岸に停泊しており、18隻が被害を受け沈没しましたが、15隻は引き上げられ、その後の戦争に参加しました。
引き上げることが困難だった3隻の戦艦のうちアリゾナ号が真珠湾の遠浅な海に現在も浮かんでいます。
アリゾナ号には当時1000人以上の海兵が乗っており、約900人がそのままアリゾナ号と運命を共に、現在も遺体は戦艦の中に入ったままです。
アリゾナ号が引き上げできないと分かったときから何度か遺体をだけでも引き上げることを試みたそうですが、艦隊に充満したガスの影響で爆発が起こり、新たな犠牲者を出してしまったことをきっかけに遺体の引き上げ作業は中止されました。
現在は、そのアリゾナ号の上に記念館と記念碑を作っており、そこを見学することができます。
真珠湾に浮かぶアリゾナ記念館
アリゾナ号の記念館を見学するには、最初にビデオを鑑賞します。
それは当時の貴重な映像を多く使い、真珠湾攻撃がどのようなものだったのかを表現しています。
戦艦が攻撃され、大勢の海兵たちを乗せて沈んでいく様子は言葉に表せないほど強烈なものでした。
その後、船に乗ってアリゾナ記念館へ渡りました。
記念館の上からアリゾナ号を見下ろすと、遠浅の海になんとなく戦艦が浮かんでいるのが見えたり、
海面から出ている戦艦の一部が見えたりします。
記念館の一番奥には今もアリゾナ号で眠っている人々を含め、アリゾナ号で亡くなった人の名前が全て記されています。
毎年12月7日にはこの場所で式典が行われるそうです。
日本人として真珠湾を訪れることは胸の痛むものでした。
日本軍が奇襲という形でアメリカの多くの人々を殺した事実は変わりません。
そしてこの奇襲攻撃を皮切りに、その後4年間で数えきれない人々が戦争によって命を落とすことになります。
歴史に「もし」はありませんが、もし真珠湾の奇襲攻撃をしていなければ、原爆が投下されることもなかったのかもしれません。
真珠湾の記念館には、広島の原爆で亡くなった佐々木禎子さんブースもあります。
原爆によって亡くなった少女であることが記載されており、実際に禎子さんが折った最後のおりづるが展示されています。
夕方過ぎになり、パールハーバービジターセンターに近いブライスデル・パークを訪れ、マーシャル諸島出身の方々の集会に出席しました。
マーシャル諸島近海では、1946年から1958年にかけてアメリカが67回に及ぶ水爆実験が行い被害を受けた国です。
日本の第五福竜丸が被爆したビキニ環礁での実験でもマーシャル諸島も大きな被害を受けました。
ハワイイに住んでいる方の多くは水爆実験が行う前に居住してきた人々で、水爆実験の被害を受けたほとんどの方はマーシャル諸島に住み続けているそうです。
その中には何人か、水爆実験の被害にあった人たちもおり、当時の様
子をわたしたちに教えてくれました。
ビキニ実験の際には、空から泡のようなものがたくさん降ってきて子ども達は楽しくなった海に飛び込み、その泡を身体につけて遊んでいたそうです。
その後、泡をつけた皮膚が赤くなり、ただれ、かゆくなり、だんだんと髪も抜け落ちていったそうです。
つまり、その「泡」とは放射線物質を含んだものだったのでしょう。
しばらくして米軍が勝手にやってきて、被爆者の症状を見ながら至る所に水をかけて除染のようなものをしていったそうです。
現在も放射線による後遺症に苦しんでおり、その影響は二世、三世へと続いています。
今回、証言を行ったのは広島で被爆した土田和美さんです。
土田さんは「私たちは戦争によって被爆したけれど、あなたたちは戦争ではない場所で被爆した。その違いを重く受け止めています。」
と、マーシャル諸島の人々を気遣う言葉があふれており、その心からの想いは彼らに伝わっていると思います。
「ヒバクシャ」は決して日本だけではく、グローバルに広がり続けている現状を改めて認識できました。
この船旅の最後の寄港地がアメリカのハワイイでした。
それはとても重要な意味のあるものであったと強く感じています。
自分たちが過去にしたことをきちんと認識したうえでそれでも原爆は落とされるべきではなかったし、核兵器が世界に存在してはいけないと訴えることができたと思います。
残すは約10日間の洋上生活のみです。
船旅の最後にわたしたちは何を伝えられるのか、何を伝えたいのか、できるだけ多くの人に想いを届けていきたいと思います。
ピースボートインターン 鈴木慧南
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