第1回~第10回おりづるプロジェクト

第9回おりづるプロジェクトー田河豊子さん

深堀譲治さんに続き、田河豊子さんの記事も毎日新聞に掲載されました。

『「刀で介錯して」父に懇願した兄』
ー(要約)田河さんは被爆当時6歳。爆心地から9.2キロのところに両親や姉弟と疎開していた。家の台所で、ピカッと青白い光をみたことを覚えている。
当時17歳だった兄克さんは軍医を目指し、長崎大医学専門部に通っていた。克さんは爆心地から約500メートルのの大学の教室でで被爆した。翌日、田河さんらがいた家に歩いて帰ってきたが、その後から徐々に衰弱。負傷していた肩や口元の傷痕が広がり、布団の上で「お腹が焼けるように熱い」と苦しみながら8月18日に亡くなった。
2004年に亡くなった母久代さんは生前、「克は『氷が欲しい』と言いながら死んだ」と語っていた。けれど「氷がなくてあげられなかった」とも。母は夏になっても氷やアイスキャンディーを一切口にしなかった。
しかしながらある時、長姉の千恵子さんは今まで「思い出したくなかったから言えなかった」という兄の最期を語り始めた。千恵子さんによると、克さんは「氷が欲しい」と胸をかきむしった後に、そばにいた父に「家に刀があったやろ。あれで介錯してくれんね」と懇願したという。父が「何をばかなことを」と抱きしめると、息を引き取った。
長年黙っていた、母も姉もどんなにつらかったか。田河さんは想像するたびに胸が締め付けられる。
ピースボートおりづるプロジェクトには、参加経験のある被爆者仲間に「人生観が変わる」と勧められ応募した。横浜港を発つ18日は、克さんの命日でもある。「兄と姉、母の思いも一緒に乗せていく。一人でも多くの人に原爆の恐ろしさが伝わって欲しい」と願う。

ピースボートインターン渡邊まあり

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