4月22日、ピースボートVoyage117はシンガポールへ寄港しました。
シンガポールは第二次世界大戦中、「昭南島(しょうなんとう)」と名前が付けられ日本軍により占領されている時代がありました。当時は日本教育を強制され、「抗日」や今後反抗するであろう「知識人」とみなされた多くの市民が虐殺され、その人数は4万から6万人に及ぶと言われています。
おりづるプロジェクトメンバーは、シンガポールの歴史を学ぶためのツアーを実施しました。
港に着岸したのは11時。シンガポールでは入国時に対面審査がおこなわれるため、メンバーみんなが入国できたのは13時近くになっていました。ということでまずは現地のご飯を食べにいきました。
基本的にごはんにはスープが付いており、そのスープの中にごはんやおかずなどを入れて食べるのがおすすめとのこと。名物のチキンライスをはじめ、空心菜炒めやフライドチキンなど多民族国家のシンガポールならではの多彩な料理を楽しみました。
その後、国立歴史博物館へ。
ここでは日本語ガイドにより1時間30分ほどをかけて歴史ギャラリーを見学しました。シンガポールが発見された当初は「ライオンの町」を意味する「シンガプーラ」と呼ばれていました。現在も数多くの考古学者が研究をしていますが、歴史的にさかのぼれるのは700年ほど前まで。なぜライオンがいたのか、すでに住んでいた人々はどのような暮らしをしていたのかなど、まだまだ解明できていない部分が多いそうです。そしてその後は、イギリスによる植民地時代や日本軍による占領時代を経て、マレーシアからの独立をするに至るまでの話を伺いました。
ガイドが終わった後、プロジェクトメンバーがそれぞれ感じたことを共有しあいました。
青春時代が戦争真っ最中だった田中煕巳さんは「戦争中の日本では『イギリスの支配から(シンガポールを)解放させるための戦い』と言われてきたので、日本の侵略の歴史を知るのは複雑な気分。けれど”原爆”という被害を伝えるには同時に、日本が何をしてきたのか加害を知り伝えていくことも必要」と発言しました。
また、多くの地域に住んだ経験があり語学も堪能なおりづるユースのジョエルは「シンガポールは国として、中華系やマレー系など人々のルーツを大切にしたまま”シンガポリアン”という意識を持ってもらえるような政策をしている。そして互いの民族を尊重した状態で成長している。それは同じように多民族なイギリスやアメリカも見本にするべきだ」と、自身が様々な国に居住して感じてきたことも含めた考えを伝えました。
博物館の後は、日本軍により虐殺された人を追悼するために建てられた「血債の塔」(正式名称:日本占領時期死難人民記念碑)を訪れました。血債の塔は4本の柱から成り立ちます。それはシンガポールの4つの主要民族(中国系、マレー系、インド系、ユーラシアン系の犠牲者とその民族文化や宗教)と、ここで亡くなり埋葬された人々が共有した苦しみの象徴とされています。
シンガポールの歴史をしっかり学んだあとは、市内観光をしながらターミナルへと戻ってきました。「常夏の国」と言われているシンガポールはすでに蒸し暑く、4月でも半袖で過ごせるくらいの気温でした。
ここから次のポートビクトリア(セイシェル)まで約一週間ほどをかけて向かいます。その期間、船内の中では小川さんの写真展やチョルノービリ(チェルノブイリ)原発を訪れたときの話、田中煕巳さんの被爆証言などの企画を予定しています。
文:橋本舞