「被爆者の生の声を聴いてもらいたい」
そんな想いを込め、被爆証言会を船内企画で実施しました。今回の話し手は長崎で1歳の時に被爆した倉守照美さん。
最初の10分ほどで倉守さんが被爆証言を語った後、スタッフとの掛け合いで証言内容を深掘りしたり、倉守さん自身を知ってもらえるような質問をしたりと全部で40分の企画です。
被爆当時は1歳で自身の記憶がなかった倉守さん。両親から被爆当時の話は聞いたことがなかったと言います。
小さな町で隣近所みんなが助け合いながら暮らしていた時代。
そんな環境で育った倉守さんは、周りに住んでいる人がみんな被爆者だったので「自分も被爆者なんだろな」と次第に思うようになったそうです。

証言中の倉守さん
そんな倉守さんが平和活動に関わるようになったきっかけはお孫さんからのある質問でした。
「ばあちゃんはどんな被爆体験をしたと?」
高校生になったお孫さんは自分にできる平和を考えて、核兵器廃絶を求める署名を集める「高校生一万人署名」の活動をしていました。
記憶のない自分には被爆を語る資格がないと思っていた倉守さんですが「孫が頑張っているのなら、被爆者の私がなにもしないわけにはいかない」と思い、活動を始めるようになります。
両親はすでに亡くなっていましたが、近所に住み、姉同然のように慕っていた方が、当時の様子や被爆者協会のことなどを詳しく教えてくれたそうです。
その方やすでに活動していた先輩被爆者、自分が体験した話などを組み立てて、今話している証言内容が出来上がりました。
自身や家族が被爆者として体験した差別から、今でも、親しくしてくれた方の実名を出したり、長崎で証言をしたりするのは憚られるそうです。
これまでの被爆者の活動によって、今では世界的に「Hibakusha」という言葉が伝わるようになりました。
しかし、自分が証言をすることによる周りへの影響を考える倉守さんの姿は、被爆者やその家族が受けてきた差別がトラウマや心の傷として残っていることを教えてくれる姿でもありました。
乗船前の打ち合わせでは出なかった「一度プロポーズをされたことがあるが、自分が被爆者ということが相手の両親に伝わり破談したことがある」というエピソードも、今回の企画前に初めて打ち明けてくれました。
「あの時は言えなかったけれど、だれにも否定されないこの場だから言ってみようと思いました」
その言葉とともにエピソードを話してくれた倉守さん。

声をかけに来てくれた参加者
会が終わった後も何人かが倉守さんの元を訪れ、
「私の母も戦争体験者ですが多くは語りませんでした」
「今度ゆっくりと、またお話聞かせてください」と声をかけてくれました。
これまでの寄港地や企画での証言活動を通して、戦争や原爆体験者が精神的に安心できる環境での証言活動や対話は、心の葛藤や傷を癒しつつ、平和への想いを世界中に繋げるきっかけになると感じた担当者でした。
(文:橋本舞)