左から橋爪文子さん、藤原富子さん、土井正晴さん
「家族には死んでもいいから世界一周に行くって言ってきたのよ」と明るく笑う87歳のお富さんこと藤原富子さん。おりづるプロジェクトのことは、同じヒバクシャで甥の土井正晴さんから聞き、姪の橋爪文子さんと3人で参加した。
24歳の時、広島市内にある勤め先の銀行に行く途中で、満員電車に乗った直後に被爆した。周りの乗客が壁になったお陰で、九死に一生を得たため、精一杯生きないと身代わりになってくれた人に申し訳ない、と語る。
実は、6年前に被爆当時の手記を発表した。同じ電車に乗っていた人と連絡を取りたいと思ったことがきっかけだった。だが残念なことに生存している人は結局、見つからなかった。「遺族の方とは、今も何人かと交流が続いています。でも私より若くして被爆した人が亡くなるのはつらいですね」と話してくれた。
ここまでの船旅で印象に残ったことは?との問いに、エリトリアで乗った蒸気機関車のことを挙げ、「あの箱の汽車(※)を見た時、広島駅から宇品港まで中国大陸に運ぶ軍馬を積んだ汽車が走っていたことを思い出しました。それと木の椅子に座って、2時間揺られながら、だんだんあたりが真っ暗になってきて、砂漠のところどころに家の明かりが灯っていましたが、被爆後の広島もこんな感じでした」と振り返る。
エリトリアで乗った100年ほど前の蒸気機関車
クッションのない木の椅子がついただけのシンプルな客車
また船内で「船上家族」という企画を行い、年齢、性別などさまざまな参加者が家族のように過ごそうというコンセプトで、希望者を募った。孫6人という9人家族のおばあちゃんになったお富さんは、今の若い人は被爆のことも戦争のことも知らないけれど、この船に乗って考えが変わるかもしれない、と期待を寄せる。
その一方で、苛烈な戦中、戦後を生き抜いてきた身としては、気がかりなこともあるともいう。
「私たちは何もない中で生きてきて、やはり衣食住の食が一番大事だと思っています。でも今20歳だと50年後の70歳まで、どれだけの人が生き延びることができるでしょうね」
船で仲良くなった人と自分が暮らす島根で来年の春にお花見する約束をしたが、それが楽しみという。そのためにも元気で生きていきたいと話すお富さんだが、被爆の後遺症で入退院を繰り返す身だからこそ、その言葉に重みを感じた。
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