おりづる文化祭のフィナーレを飾った「FUNKISTダンス」。
バンド、踊り、手話、歌が一体となって、会場全体を包み、そこにいるすべての人を感動の渦に巻き込んだ。あのダンスはどのようにして生まれたのか。ダンスメンバーの中心として振り付けを担当したちよこと金村三千代さんに話を聞いた。
「私は、友だちにピースボートのスタッフをしている人がいるのですが、乗船前その子から今回のクルーズで『ヒバクシャが102名乗ってくる』と聞きました。でもその時はあまり興味がなく、そうなんだくらいの認識しかありませんでした」
乗船後、今回一緒に乗船した友人がすべてのヒバクシャにインタビューすると聞き、その場に同行させてもらう。
「ただヒバク体験を聞いても、赤や黄色といった色や映像のイメージしかわかず、経験していないことはわからないなぁという印象しかなかったですね」
それが一変したのは、シンガポールで乗船した水先案内人のワークショップ『白い花』に加わってからだという。
(『白い花』のメンバーと記念写真に収まる金村さん)
「『白い花』で、原爆の映像と音が一体となって迫ってきた時、ヒバクというものがわかったような気がしました。もちろん現実はそうではなかったという意見があるのも知っています。でも私にとってそのことでヒバクというものをはじめて身近に感じられたんです」
船内で行われた『白い花』に出演したことがきっかけで、インド・コーチンでのヒバクシャ交流会で上演された『白い花』にも出演することになる。その会場で彼女はFUNKISTの『こどもたちのそら』に出会う。セレモニー終了後に会場に流れた最初の『どんな爆弾にだって…』という歌詞に惹きつけられる。
「海外だと社会的なことをテーマにした歌は多いけど、それまで歌詞に『爆弾』という言葉を使った歌は聴いたことがなかったから。それから船で毎日のように聴くうちに、この曲で踊りたいという気持ちが自然に湧き上がってきました。これまでは洋楽で踊っていたから、歌詞のことを気にすることはほとんどなかったけど、はじめて日本語の歌で踊りたいと思ったんです」
そう密かに思い続けていたが、元々船内でヒップホップなどストリートダンスチームのまとめ役をしていたため、なかなかそのチャンスが訪れることはなかった。が、ようやく転機が訪れる。おりづる文化祭をクルーズ後半でやるということを聞いて、「この曲、この歌詞、自分の振り付けでぜひやりたい」と決意。メンバーは16人で、ほとんどが乗船してからダンスを始めた人ばかりだったが、やりたい人がやるのが一番という方針の結果だ。
そして文化祭のほぼ1週間前くらいから練習開始。
「この曲は歌いながら踊りたいと思ったから、まずは歌から入りました。そのうちに手話を入れたいという案がメンバーから出て、次に手話を覚えました。それから最後にダンスの振りを作っていきました」
(手話メンバーによる自主練)
(屋上での練習風景)
そうして完成した「FUNKISTダンス」だが、練習するうちにダンス以外で手話で歌う人、歌だけの人とも一緒にやることになり、当日を迎えた。しかしその日は朝から天候が不安定。ダンスを披露する閉会式は予定していた屋外でできるかどうかギリギリまで決まらず、結局、会場を室内に移すことに。慌ただしくリハーサルが行われ、ダンスメンバーの立ち位置や手話や歌のメンバーとの位置を確認し、本番へ。もうひとつのダンス「9条ダンス」が終わり、その余韻を残したまま、会場に『こどもたちのそら』のイントロが静かに流れ出す。
「曲がはじまった途端、涙が出ました。心の中でメンバーに『ありがとう』って言って。でもその後は冷静になって周りがよく見えました。ステージが狭くなった代わりに、みんなの歌声がはっきり聞こえるようになったし、手話メンバーがダンスの前になったから一体感がありました。結果的に室内になってよかったですね」
今回のクルーズ乗船で、おりづるプロジェクトに出会い「深く考えさせてもらうきっかけをもらった」という金村さん。おりづるが『白い花』につながり、そして「FUNKISTダンス」へと昇華した。
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