平成21年5月12日
パールハーバー
毎月9日11時02分は平和公園ナガサキの鐘をつき、手帳友の会の方たちと黙とうを捧げる。
ゴールデンウィークに入りトンネル工場作業もお休み状態なので今日は思い出を書く。
今日は5月3日憲法記念日、クルーズ中9条の精神を徹頭徹尾叩き込まれ正直はじめは何のことかわからずにいたが非核三原則の確たる講座を受け、特にピースボートに9条アンバサダーとして乗船していた中島さんが担当しており、しっかり勉強した講義に出席して少しは把握することが出来た。
又ベートーベン第九にあわせ九条の歌は特出すべきもの、今年は憲法成立62年になり賛否両論激しいが残る人生少ない我々も戦争反対である。
さる14年私たち家族はパールハーバーへ行く。母子家庭で私もさんざん苦労を重ねたがそれなりに成人した子供たちは、異国へ移動して幾久しく、家族とともに会う事が出来ないと半ば諦める、それが叶う時が来た。長男が京大ウィルス研で学位を取得しドイツ.ビュルツブルグ大学へ留学、3年後アメリカハーバード大学へ7年の研究生活を送り、ようやく母国へ帰ることになりこのチャンスを逃したら全員集合は難しく、憧れのハワイで逢おうと無理なプランを立て3月末実現の運びとなった。おまけに女ども4人は3月バースデー、3家族と私13名がマウイシェラトンホテルでディナーの時間はまさに至福の喜びであった。翌朝早く二男とクジラ見学へ行く。この時期クジラの出産期に当たりラッシュでマウイの港へ集結する小型船で沖合に出るまでもなく船のそばまで寄ってくる。生まれたばかりの赤ちゃんクジラが、両親の後に付く、生意気にも潮を噴き上げ愛らしく楽しい。又クジラ博物館では、ガラスの箱に入った中型犬らしき動物、もちろん剥製だが上の穴に耳を当てるとキイキイと不可解な声、これが昔陸上で生活した時の原型、祖先であると記してある。それが海に入り巨大なクジラになるとは知る由もない。翌日ホノルルシェラトンへ移りワイキキ・ハナウマベイで遊びかねて念願であったパールハーバーへレンタカー3台に分乗して向かった。
ところはホノルル郊外、遠くに存在している。いかめしく兵隊が立ち館内は血染めの水兵服など飾られ屋外は撃沈された軍艦がずらりと並びその数の多さに思わず日本もやったなあとしみじみとした感慨を味わったものだ。韓国人ツアーが口々に私たちを指さして非難しているのにいたたまれずアリゾナ号沈没の現場を見る時間も待たず街へ帰る。
翌日、会うのは楽しいが、それぞれ帰途に就くと淋しく辛い。
あの開戦の朝12月8日未明特殊潜行艇はパールハーバー襲撃大勝利を治めたとの大本営発表に国民こぞって万歳を叫んだ。勇敢なる海軍軍人は軍神と称えられ後、映画になり久しぶりに学校全員鑑賞に行った。山内明演ずる横山中尉の英姿に私たち女学生はしびれた。横内先生講座で池田氏大叔父に当たる海軍士官が死地に赴く彼らの護衛にあたる任務の息詰まる実話には始めて知り愕然となる。成功は九軍神となり、なぜ九人だろうと口にはできなかったが戦後の情報で一人が捕虜一号となり抑留された。その報道に「生きて虜囚の辱めをうけるな」との戦陣訓はどれほど彼らを苦しめたか察するに余りある。
時のルーズベルトはだまし打ちと言うが在米日本大使は13時間前に宣戦布告を大統領に告げたという事実、そして敗色濃い日本上陸作戦を決めておき乍ら敢えてトルーマンは原爆投下を命令、7月に原爆製造成功の報告を受けた。彼は莫大な費用をかけた新型爆弾を使用しないと議会が承知しないと予測、そして急にトルーマンの態度がでかくなったと、チャーチル・スターリンが不審に思ったこと。二度まで投下実験をした意図は終戦を早めること。これ以上米兵の犠牲を増さぬこと。パールハーバー奇襲作戦の報復とは卑怯極まる、勝てば官軍とはこのことか。
いみじくも今回の証言の旅で真相を知るのは望外であり複雑さがある。
ピースボートが主張する核廃絶の精神が来年の市長会議の開催をナガサキで、また田上市長はじめ被爆者代表が訪米するとのニュースは我々被爆者をひきしめ、より多くの活動をすべきであると決心する。
因みにモナリザ号後半のある日オーストラリア作家のインタビューを受け一度書いたと思うが終戦後の屈辱、女学校でのDDT事件、米兵の軍装土足のままの非礼さをいうと作家氏はその兵士たちはおそらくオーストラリア兵であろう。何故ならナガサキ、ヒロシマに進駐するのはアメリカにとって報復を恐れるあまり同じ連合軍のオーストラリア兵を派遣させたに違いないという。
我々は白人はみなアメリカ人と思うがそれほど日本人の魂を重く見ているのかと感じる。
最後にオバマに何を望むのかの問いに「天に唾するものは自分にかえる」と格言を言う。わかいCC女性は通訳に困ったようだったがゼスチャーで天井向けて唾を吐き自分にかかる動作ははたして作家先生にわかったかな、曰く核兵器使用すれば必ず他国からの攻撃を受けるのは必定である。それは核保有国全部に警告するもので、あながち日本も憲法九条改正を求める声があるのは危険である。ウラン産出国であるオーストラリアが一番買い占めるのは日本であると云う。原子力発電所を増設の兆しある今は、「類は友を呼ぶ」格言を忘れてはいけない。次の世代に望むや切である。
現在新型インフルエンザ流行、日本にも被害者でる。危機は何時何処から襲ってくるか分からない。長男は国立感染症研究所勤務で多忙である。水際作戦はある程度くい止めたがそれぞれ自己管理を怠ってはならぬ。
ここにも世界中が平和と健康を望むべく努力すべきである。
平成21年5月15日
住吉トンネル工場
今日はかなり良い報告が出来ますよ。真っ青な空、真に5月は若葉の季節です。
朝から住吉トンネル工場へ行きました。現場は復元される二基のトンネルが迎えてくれました。入口には見たこともない重機が唸りを上げています。近づくと作業員の一人が急いで囲いの中から出てきて危険だから近寄るなと立ちはだかります。事情を話し「現在どうなっているか」と質問するとその人は「自分達栄組は道路の整備を請け負っている、トンネル上の坂道は歩道がないのでこの上に庇を作り歩道を作る、それには半年かかる」と言います。なるほど上の坂道は車は走るが歩く人は手すりに沿って用心して歩いています。本当は№3トンネルみたいに全部つぶした方が早いことはよく分かります。「その後トンネルはどうなるのか」質問
するとそれは分からぬ。写真は自由だが後ろの石段の途中から写すように現場には近付かぬこと。
それでは資料館へ行こうと浜口町で電車を降り急な坂道を息を切らして上りました。折しも修学旅行シーズンで館内、電車満員状態、受付でTさんを訪ねるとTELで呼んでくれます。初めて会うので彼女は2F応接へ案内しお茶を出しM氏も同席しました。
TELだけでしたが二人とも若い男女できびきびしています。今見てきたトンネルの現状を話し、肝心の復元工事はどうなっているかと聞くと「その工事会社は決まっているが教えることはできない」とそれは納得、市の広報に出したのは公開の時案内掲示板に書く資料がないが、今まで連絡してくれる人も居ないとのこと。
二人ノートを開き取材にかかり彼の書く内部の構造は機械の位置から異なっています。旋盤機が斜めにずらりと配置され工員さんと助手が入れる間隔、横は通路になり奥が三基のつながる広場で発電所でトンネル内の往来はそこからで、出口は入口のみ。電気は蛍光灯であったかとの質問、それは電球に決まっている。空襲が始まると大橋工場から避難して走ってきて満員となり解除されると現場へ戻る、周囲は畠の農道のみ、魚雷を見たのは大橋工場へお使いに行ったとき大きな魚雷二基横たわり絶句して工員さんに聞くと魚雷製造でこの工場はその部品を作っている。しかし機密なので他言無用とのこと。このトンネル有無のことで船内でヒロシマの人に相当いじめられたと云うと若い二人憤慨してヒロシマは平野だから被害も大きかったしトンネルなど無かっただろう。しかし完成公開の暁にはヒロシマ全員招待したらどうですか?と今まで非難されてきた私の気持ちを和らげるやさしい言葉に救われました。後8月9日前夜の様子、T先生の死、多くの学友の死と放射線汚染を話すと涙止まらず彼らも真剣に聞いてくれた。約2時間余りだったが実に心清まるひと時で感謝、又分からないことがあったら連絡すると玄関まで送ってくれる。帰途は心も体も足も軽やか、久しぶりに充実した時間でした。
今かる梅雨、夏と不順な天候となるでしょう。でも必ず完成まで見届けます。核廃絶の実態が目の前にあるのですから。後進に残すまでは老骨の身ですが頑張ります。
(文責:森喜代子)
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