第8回おりづるユースより、本日は、被爆クスノキについてのレポートです。
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こんにちは。おりづるユース特使の鈴木慧南(すずき けいな)です。
私が長崎に初めて訪れたのは大学2年生の夏でした。サークルの夏合宿として訪れた長崎。
私が所属する明治学院大学のサークル”Peace Ring”は、核問題を学ぶサークルで、実際に広島や長崎に訪れる合宿を行っています。そんな中、学びだけでなく、長崎で出会う人々、町を流れる空気、歴史を大切にしている習慣、満点の星空が見える秘密の公園などなど・・・わくわくが溢れる場所がどんどん見つかっていき、いつしか、この町がだいすきになり今では長期休みができるたびに通っています。
今回はそんな長崎でも有名な、そして私もだいすきな”山王神社のクスノキ”についてお伝えします。
長崎の坂の上に方に、山王神社はあります。
そこで参拝客を出迎えてくれるのは、太く、堂々とし、天まで届きそうな躍動感の溢れる2本のクスノキです。
1945年8月9日。
長崎に投下された原子爆弾によって多くの命が失われ、山王神社は爆心地より800mで被爆しました。
当時、クスノキは枯れ果てていましたが、長崎の町で必死に生きていこうとする人々の答えるかのように徐々に樹勢を取り戻し、現在では立派な大木へと成長を遂げました。
被爆クスノキは2本とも樹齢500年を超える大樹です。戦争が始まるずっと前から、長崎の町を黙って見守っていました。
どのように失われた命があったのか、どのように生きた命があったのか、それをただ黙って見守り続けています。
残念ながら、私は木と会話をすることができません。
しかし、被爆クスノキに触れ、そっと目を閉じると、溢れんばかりのエネルギーを私の中に注ぎ込んでくれます。彼らはただ黙って少しの勇気を分けてくれているかのような、そんな不思議な気持ちに自然となるのが山王神社です。被爆クスノキは、ただ黙って町を眺めていることが、彼らが何百年もそこで生きてきた存在理由なのだと思います。これからもずっと、私の命よりも遥かに長い命を燃やしながら、そこで生き続けることでしょう。
私たちはそんな被爆クスノキにどんな長崎を見せてあげることができるでしょうか。
また戦争の経験をさせてしまうのか、全ては私たち次第であり、被爆クスノキは行く末の見届け人なのだと思います。被爆クスノキがこれからも健やかに生きていける環境を作ることは、その町の平和を創ることに繋がることです。つまり、クスノキは長崎の原爆の悲惨さの象徴ではなく、長崎の平和の象徴なのではないでしょうか。
さて、今回の第8回ヒバクシャ地球一周 証言の航海には、このクスノキの保護に長年携わってこられた森田博滿さんも乗船されます。
(写真は森田博滿さん、80歳。森田さんをはじめとした他参加者のプロフィールはこちら)
右側のクスノキに設置されている、被爆当時の石なども森田さんが発見し、平和を訴える活動をなさっています。
私が感じているクスノキの存在と、実際に被爆を経験なさった方が感じるクスノキの存在はきっと異なると思います。また、長年保護に携わってきたからこその未来のクスノキへの想いもあることでしょう。
そんな森田さん視点のクスノキの物語も一つずつ教えていただきたいなと思っています。
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森田さんとクスノキの物語。
小さな頃から、被爆してから、身を立て、今に至るまで・・・
長い間、ともにクスノキと歩んできた森田さんの人生と歩みからは「自分にとって大事なもの」を思わされます。
昨年8月に新聞掲載された森田さんの歩み
<被爆クスノキと歩み>2014年8月10日 毎日新聞 長崎
「様々な偶然が重なり、奇跡的に助かった自らの体験や、クスノキの話を通じて、命の尊さを訴える為に精一杯がんばりたい」と語った森田さん。
先日の長崎オリエンテーションでの様子
<被爆者2人「証言の航海」へ>2015年2月18日 毎日新聞
森田さんは、春に出航する航海に向けて、証言の原稿を改めてまとめたりと準備をしている最中。
「今になっても、被爆して亡くなった家族や友人を思うと、原稿をまとめる手が止まり涙が溢れてしまう」と言います。
強い使命感を感じ、証言の航海に旅立つ被爆者の方の思いを感じます。
守られてきたクスノキを、新たな世代が守り、クスノキにも、繰り返す戦争を見せない為に、何ができるのか・・・
そんなユースの思いや新たなアプローチで、今まで関心のなかった人や、被爆者と出会ったことがない世界中の人など、さらに多くの人に伝えて行きたいですね!
(ピースボート 中田智子)
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