1.ヒバクシャ証言の航海

3.11に馳せる想い

 

長谷川健一さん、花子さんご夫妻は以前のブログにも登場していただいていますが、7年前まで福島県飯舘村で家族8人と50頭の牛と一緒に暮らしていた酪農家です。

東日本大震災から今日で7年。

あの東日本大震災によって起こった福島第一原発事故により、その穏やかな生活を、そして人生を一変させられたおふたりです。

 

歴史に「もし」はないと分かっているけど、

「もし」、原発事故が起きてなかったら、

いま、長谷川さんご夫妻はどんな2018年を生きていたのでしょうか。

ピースボートで出会うことも、出会う必要もなかったのに。

オーストラリア区間で何度もこの7年間の生活の実状を語る長谷川さんご夫妻を目の前に、ぼんやりとそんなことを考えていました。

 

 

毎回の講演の中で、健一さんが必ず話していたのは、原発事故の後、牛がどうなったかということです。

福島第一原発から飛散した放射性物質は飯舘村の空にも降り注ぎました。

そして被曝した牛の乳から放射性物質が検出され、出荷停止となりました。健一さんは毎日のように牛乳を搾ってはすべて廃棄し続けました。乳を搾ることをやめれば、その牛が病気になってしまうからです。

そして、4月に入ってから、全村避難の指示に伴い、これまで家族として育ててきた牛を飼育し続けることができなくなりました。

長谷川さんだけではなく、酪農仲間もみな、家族同然の牛をと畜場に送り出したり、他の牧場に引き取ってもらい、すべて手放すことになりました。

酪農家として絶望的な状況のなか「原発さえなければ」という遺言を残して、自ら命を絶ったご友人の話には胸が張り裂ける思いです。

 
 

花子さんは仮設住宅の管理人として7年間、高齢者を見守ってきました。

毎朝のラジオ体操、お正月のお餅つきや、お花見など、元気づける工夫をたくさんされています。

昨年の331日に飯舘村の避難指示が解除されました。あれから約1年で飯舘村に戻った住民はかつての6500人の10分の1にも満たないわずか500人ほどです。

帰ったとしても、その村は以前の飯舘村のコミュニティとは程遠く、ご近所付き合いをするためのご近所さんもいなかったり、高齢者を受け入れるための福祉も充実していないため、仮設住宅にいたほうがマシという風潮もあるそうです。

そんな中、仮設住宅に居られる期間もそれほど長くはないという現実に、どうしたらいいのか分からず夜も十分に寝られない方もいるといいます。

 
 

地震は自然災害で、原発事故は人災である。

 

原発事故の被害者となってしまった長谷川さんたちが教えてくれることはとてもシンプルでまっすぐです。

 

「原発や核のない世界がいい」

「もう他に同じ想いをさせたくない」

 

私はおふたりに出逢い、あの事故によって、おふたりが、家族が、牛が、ご友人が、飯館の人たちが向き合わなければならなくなった現実を聞きました。

これからどんな未来を選ぶのか、3.11というこの日に、長谷川さんたちの顔を浮かべながら考えます。

きっとこれからも、「東日本大震災」「福島」「原発」
という言葉を聞いた時に浮かんでくるのはおふたりの笑顔です。

 

文: おりづるユース 安藤真子

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