12月17日、エクアドルのキトにあるサンフランシスコ大学の学生130名との8回目のオンライン証言会。マイケル・ヴァルディヴィエソさんのホストのもと、エクアドル、メキシコの学生が参加しました。
核兵器によって戦争の質が変わった
今回、被爆証言をしてくださったのは、被団協(日本原水爆被害者団体協議会)で代表委員を務め、核兵器のない世界のために、そして核兵器をなくす条約を作ることを50年近く訴えていらした、田中熙巳さん。
たった1発の爆弾で何千人、何万人の命が一瞬にして奪われたこと、どのような被害があったのかなど、「証言、写真、ビデオなどで見聞きして想像して欲しい」と参加者に語りました。「正しいことのために少人数を殺しても許されるという戦争観、戦争の質が核兵器によって大きく変わったのです」とも。
1976年から核兵器を禁止する条約を求めて
40歳近くになって自身の経験をもとに証言し始めた田中さんは、1976年に初めて国連に行き、核兵器を禁止する条約の制定を求めたそうです。現地の学校でも話し、それ以来日本国内外でそのような条約の必要性を訴えてきました。それでも、40年以上なかなか実現しなかったのです。
だから、「2017年に核兵器禁止条約が国連で採択された時には飛び上がってしまいそうに嬉しかったし、泣きそうだった」と。「国同士の信頼を築くことは難しいけれど、問題があった時にそれを核兵器で解決しようという考え自体を人間として捨てて欲しい」とも。
被爆者の訴えとICANのプッシュ
もちろん75年間におよぶ被爆者の長くあきらめない訴えがなければ、核兵器禁止条約は実現しませんでした。田中さんをはじめとする多くの被爆者が思い出すのも嫌な経験を何度も何度も語り続けてきてくれたことが実を結んだのです。
ただ、田中さんはそれだけではないと言います。「被爆者の訴えをサポートして、後押しする形で世界の人がICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)に集った。そして、国連加盟国に粘り強く訴え続けたことで、2017年の核兵器禁止条約の採択に結び付いた」と。
田中さんが飛び上がりそうに喜んだ核兵器禁止要約ですが、「核兵器の犠牲になりながらもアメリカとの軍事同盟のもと、日本が参加していないのは残念でならない」そうです。
参加者からは
農業、医療などの分野で放射線が使われることについてどう思うかとの問いがありました。それに対して、田中さんは放射線の利用方法に関しては厳格に制限されているが、放射能を含む核兵器のコントロールは人間には不可能であることを強調しました。
世界の若者と力をあわせて
今回のオンライン証言会に希望を見出してくださった田中さんは最後に「もうかなり高齢になったけれど、世界の若者と力を合わせてもう少し頑張りたいな」と締めくくりました。
文・渡辺里香