7.おりづるプロジェクト・オンライン

児玉三智子さん、スウェーデンの高校生に語った「原爆被害は過去のことではなく、現在、未来のことです」

9月21日、スウェーデンの核戦争防止国際医師会議のクララ・レヴィンさん主催のもと、高校生30人が参加して第42回目のオンライン証言会が行われました。この度、証言してくださったのは7歳のとき広島で被爆した、児玉三智子さんです。まず初めにクララさんから、核兵器の世界における現状とスウェーデンの立場を生徒たちに説明しました。それから、「名前からわかると思いますが、私も北欧のスカンジナビア出身です」という自己紹介と共にピースボートのデンマーク出身スタッフ ルイース・ソレンセンからピースボートとオンラン証言会の意味を説明しました。

高校の教室からクララ・レヴィンさん

おりづるプロジェクト・オンラインを紹介するルイース・ソレンセン

「この世の地獄をみた」

1945年8月6日、当時国民学校2年生だった児玉三智子さんは、木造校舎にいました。突然のものすごい光、あっという間に木造校舎の梁が落ち、窓ガラスが飛び散り、教室の壁、机、床に、そして児玉さんの身体にも突き刺さりました。ですが幸いなことに大事には至らず、軽症だったそうです。

「迎えに来てくれた父におんぶされて帰宅する途中、この世の地獄を目にしました」
皮膚が焼けただれぶら下がっているひと、真っ黒い炭のようになった赤ちゃんを抱いてひどいやけどを負ったお母さん、眼球が飛びだしているひと、とびだした内臓を抱えたひとたちが、みな逃げまどっていたそうです。「水を下さい、水、水を、、」 と父や私にすがりついてくる人、人、人、児玉さんやお父さんはその人たちをどうすることも出来ず、自宅まで逃げるように帰ったそうです。

児玉さんのお家は、原爆投下の少し前まで爆心地に近いところにあり、爆心地から350mくらいに在った学校に通学していましたが、国の命令により転居することになり、学校も転校しました。もし転居していなければ、児玉さんもご家族も生きてはいなかったとおっしゃっていました。実際、児玉さんが通っていた学校の児童400人、先生11人は一瞬のうちに焼き殺され、骨も見つからない状態だったと、後に知られたそうです。

爆心地から3.5㎞余りの場所に転居したお家も、爆風で屋根が飛ばされ、ガラスも飛び散り、放射能を多量に含んだ「黒い雨」が家の中まで降り、壁やタンスにはいつまでも「黒い雨」の筋が残っていたそうです。

家族の死

爆心地から500mのところで作業をしていた、児玉さんの従姉は顔半分、背中から足首までズルズルに焼けただれ、児玉さんの家まで逃げてこられたそうですが、あまりのひどい姿に怖く、いとことは分からないくらいだったそうです。焼けただれたところは、化膿がドンドン広がり、そこにウジがわいていたそうです。児玉さんはウジをとり、体液を拭く、それしか出来なかったとおっしゃっていました。その従姉は3日目の8月9日の朝、児玉さんの腕の中で亡くなったそうです。彼女は、たった14歳という若さでした。

児玉さんの10歳だった従兄は軽傷でしたが、下痢が続いていました。ある日、口から、鼻から血を流し、口からは血の固まりのようなものを吐き出し、突然倒れて亡くなりました。児玉さん自身も軽傷ではあったものの、鼻と口から出血していたので、従兄のように血の固まりを吐き出し、死ぬのではないかと、怖くてこわくて、母から離れることが出来なかったそうです。家に避難してきた伯父さん、叔母さんたちも、9月中頃までに次つぎと亡くなってしまったそうです。

やがて児玉さんのご両親も亡くなり、娘さんは2010年11月にガンを患ったそうです。その半年後、2011年2月突然娘さんは逝ってしまいました。児玉さんがその娘さんを授かったとき、放射能の影響が出ないかを迷いに迷い、やっとの思いで決断して産み育てた、そんな娘さんでした。彼女を亡くして10年が過ぎた今も、児玉さんは娘さんをそばに感じ、2人にしか聞こえない対話を交わしているのだとおっしゃっていました。

そして、2017年7月「核兵器禁止条約」が採択された3ヶ月後の10月に、児玉さんは末の弟さんを多発性骨髄腫で亡くされ、12月には被爆当時5歳だった弟さんを多重ガンで亡くされました。2人の弟さん、娘さん次々に失ったのです。

No more Hibakusha, No more War

児玉さんはおっしゃいました。

教室に集まった生徒たちは、最初はシャイでしたが、だんだん質問が止まらなくなりました。

「8月6日は広島、9日は長崎に投下された原子爆弾は、瞬時に多くの命を無残に奪い、かろうじて生き残った被爆者も、放射能の後遺症で次々に亡くなっていきました。原爆は人として死ぬことも、人間らしく生きることも許さなかったのです」
「奇跡的に生き延びた被爆者も、自分だけが生き残ったという罪悪感、脳裏に焼き付いたままのあの日の地獄の光景、音、声、においを抱きながら生きています。その後の生活苦、世間の偏見、差別のつらさ、被爆者の苦しみは深く、今なおつづいています。76年経った今でも「あの日」が消えることはありません。就職のとき、結婚の時、被爆者であるという事だけで偏見、差別を受けた、何年経っても原爆は容赦なく苦しめ続けるのです」

また、現在も約13,000発もの核兵器が存在することに関して、

「『核兵器が在る』ということは、広島・長崎の惨禍が再び繰り返されるということです。もし、核兵器が意図的であれ、偶発的であれ、ふたたび使われることがあれば、世界の子どもたちの未来に、甚大な被害をもたらします。みなさんが『核被害の当事者』になるということです。原爆の被害は過去のことではなく、現在、未来のことです」
「今年6月米ロ首脳会談で『核戦争に勝者はいない』と確認しました。被爆者は核兵器禁止条約を活かし、核兵器のない世界へ踏み出すよう世界の人々に強く訴えます」

と、最後に児玉さんは力を込めて語られました。

証言会をとおして

証言会後の質疑応答の時間には、スウェーデンの学生から、「どのようにして児玉さん自身が原爆投下から、立ち直ることができたのか」、「なぜ被爆者は差別・偏見を受けるのか」、「現在のアメリカに対する感情」や「核保有国が核兵器を無くすためにはどうすれば良いのか」など多くの質問が寄せられました。

そのなかで、GHQにより支配された1945年から1952年までの7年間、原爆による全ての被害が隠蔽され、被爆者の存在がないものとされました。とりわけ原爆投下から1ヶ月後の一番援助が必要な時に、被爆者に対する処置が全て打ち切られ、かろうじて生き残った被爆者も次々に亡くなったとおっしゃっていました。
また、長女を授かった時には、原爆による影響を恐れて迷い、やっとの思いで出産を決断しました。一瞬にして奪われた多くの方々の命、原爆症により苦しみ亡くなっていった家族の命、彼らの命に背中を押されて、ようやく決断ができた、とも語っておられました。

その他には、児玉さんのお知り合いの戦争体験もありました。知り合いの夫が戦死したと知り、でもその夫の家系を守るために夫の弟と結婚をした、しかし数年後に戦死したはずの夫が帰還したというのです。しかし、その女性は帰還した最初の夫には再会することが出来なかった、というお話に私自身、特に胸を打たれました。
原子爆弾とは、核兵器とは、その土地やコミュニティ、そこに暮らす人々の命をも奪ったうえに、家族さえも破壊し、生き残った者に生涯にわたる身体的な苦しみ、精神的苦痛の傷跡を残すのだと改めて強く、実感しました。そして、今私たちは当時のものよりも何百倍もの威力の核兵器がある世界に生きているのだと、強い危機感を覚えました。

児玉さんがおっしゃったように、およそ13,000発の核兵器が存在する地球に暮らす、私たち1人ひとりが、その当事者なのです。児玉さんの証言を過去のものにするのではなく、核兵器の問題を自分ごととし、その証言から何を学び、どう現代社会と向き合うのか、児玉さんから証言を受け継いだ私たちにはその姿勢が求められているのだと思いました。

最後に主催者のクララ・レヴィンさんをはじめとするスウェーデンの皆さん、お話ししてくださった児玉三智子さん、心から感謝申し上げます。

通訳の山本直美さん(真ん中下)、報告書担当の馬屋原瑠美さん(右下)、レコーディング担当の小林美晴さん(右上)と一緒に

文:馬屋原瑠美
編集:渡辺里香

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