4月15日に第22回目のオンライン証言会を行いました。今回はノースカロライナ大学の皆さん約40名と共に、国連軍縮のためのユースとしても活動するクリステル・バラカットさんの司会進行のもとに証言会は始まりました。
ノースカロライナ大学を代表して、マリア・アナスタシウ教授からも、今回のような機会に恵まれたことに感謝して挨拶をしてくれました。
今回証言をしてくださったのは広島で2歳の時に被爆し、現在はブラジルにお住まいの渡辺淳子さんです。淳子さんの、被爆体験や証言会などの活動を始めた理由、その経緯を詳しくありのままの感情で私たちに語って下さいました。
知らなかった自身の被爆
淳子さんは2歳の時に広島で被爆し、24歳の時に結婚してブラジルへと移住しました。
その後月日は流れ、38歳の時に夫から広島に戻って両親を訪ねる事を提案され、淳子さんはブラジルへ移住後、初めて広島へ戻りました。
その際に、両親から初めて自分は被爆していたという事を知らされたのです。
淳子さんはその時まで、自分が被爆していたとは知らなかったのです。
8月6日、この日はとてもいい天気で暑い日でした。
淳子さんのお母さんは家の前で弟に授乳しており、淳子さんと二歳上のお兄さんは神社で一緒に遊んでいました。
そして原子爆弾が投下された後、とても天気が良かったにも関わらず強風が吹き、空からは大量の灰が降ってきました。
淳子さんのお母さんは大変なことが起きたと感じ、神社へ急いで淳子さんとお兄さんを迎えに来ました。すると、3人で家へ帰っている途中に黒い雨が降ってきたのです。
淳子さんは黒い雨を大量に浴びてしまい、その後ひどい下痢を発症しました。
淳子さんは、その後食べても食べてもひどい下痢を繰り返し、両親は淳子さんが死んでしまうかもしれないという不安を抱きました。
しかし、両親が懸命に看病したおかげで淳子さんは一命を取り留めました。
被爆者協会との出会い
淳子さんが、60歳の時にブラジルの被爆者協会の方に「淳子さんは被爆者の中でも若いのだから、助けて下さい」と言われ、被爆者協会で活動を始めました。
これが、淳子さんにとって原爆投下による被害がいかに悲惨なものだったのか、学んでいくスタートとなったのです。
被爆者協会のオフィスで働き始めた淳子さんは、原爆投下に関する様々な文書や写真と出会いました。
その中で二つの資料に出会い、淳子さんは大きな衝撃を受けたのです。
一つ目は1987年に作成された文書で、被爆者の証言が書かれたものでした。
淳子さんはこの文書と出会い、「なぜ今まで自分はこのような事を知らずに生きてきたのか」と衝撃を受けました。
二つ目はジャーナリストが撮影した広島の映像でした。
この映像には、お年寄りや子どもたちなど一般市民が普通に生活している映像と共に、原爆投下後の映像が収められていました。
被爆した人たちは身体が焼けてしまい、ゾンビのような姿で歩いていました。
また、銀行が開くのをベンチで座って待っていた男性の姿は、原爆投下後には溶けてしまい彼の影は石に刻まれていました。
映像の中に収められていた被爆した子どもたちの姿を、当時2歳で被爆した淳子さん自身の姿を重ね合わせ、なぜ人間同士がお互いにこんなに酷いことが出来るのかとショックを受けられたそうです。
この文書と映像を見たことによって、淳子さんは活動に対して強い意志を持つようになりました。
あの日淳子さんと一緒に遊んでいたお兄さんは、11年前に肝臓癌で亡くなりました。
お母さんに授乳されていた弟は広島に住んでいますが、今もなお血液の治療を受けています。
放射線の影響は多大であって、それを抱えながら被爆者の人たちは生きているのです。
協会で働き出して18年が経ち、多くの被爆者と出会い、様々な話を淳子さんは聞いてこられました。
最後に淳子さんは涙ぐみながらも強く私たちにメッセージを送って下さいました。
「被爆者が見たものは言葉を超えており、核兵器や放射線の脅威は現在も増すばかりです。
今、地球で生きている若い人たちは広島・長崎の原爆投下後の荒廃した街の景色や、被爆者たちがどんな痛みや苦しみを抱えて生きているのか忘れないで下さい。私たちの世界には、昔よりはるかに威力を増した原子爆弾が存在しています。
心の底から平和な世界を望んでいます。」
と淳子さんの悲痛な思いが画面からでも痛いほど伝わってくる証言でした。
その後たくさんの質問が出て、時間いっぱい淳子さんは答えていました。
質問のうちのいくつかを紹介したいと思います。
○自分が被爆したと両親から聞かされた時はどんな思いでしたか?
被爆というものを知らずに育っているので、「黒い雨を浴びた被爆者なんだよ」と両親から言われた時もあまり色んなことは感じなかったです。
○証言活動についてどのように思いますか?
協会で働き出す前までは、慰霊祭などには訪れていましたが、そこまで関心はなかったです。
ブラジルで、毎年8月に近づくと証言の依頼が来ていましたが、被爆した記憶が無いために証言する資格はないと思っていました。
なので、毎年他の被爆者の方がお話しされているのを後ろで聞いていました。
しかし、段々と被爆者の方が亡くなっていき、その人たちが語ってきた証言を心で受け止め、これからは自分も証言していかなければならないと思い証言活動を始めました。
○証言するときはどのような気持ちですか?
証言している時はものすごく悲しくなります。
怒りや腹立ちや、悲しみなど様々な感情を抱きながらお話しするので、証言した後は落ち込みます。
などと、質問に対しても一つ一つ熱を持って丁寧に答えていただきました。
証言会を通して
悲しみや怒りなど様々な感情を抱きながら、懸命に証言をしてくださった淳子さんの思いを私たちも心で受け止め、核兵器廃絶という他人事ではなく、自分のこととして考えて行動していく必要があるのだと感じました。
そして、被爆者の方々の思いをこれから先もずっと忘れずに、次の世代へと伝えていく義務があると改めて感じた証言会でした。
アーカイブ映像:
文:執柄詩衣莉
編集:渡辺里香