7.おりづるプロジェクト・オンライン

「いったん戦争が始まってしまうと、苦しむのは国民」と米国・ペンシルバニア大学の学生に

3月3日、17回目のオンライン証言会は米国のペンシルバニア大学の授業の一環で行われました。ピースボートスタッフの畠山澄子さんが同大学で担当している「世界の放射能の歴史:1945年から続く核の時代に生きて」という授業で、15名の学生が集まりました。そして、彼らと同じティーンエージャーの時に広島で被爆し、その後「原爆乙女」の一人として渡米した笹森恵子(ささもりしげこ)さんのお話を聞きました。原爆乙女とは、被爆から10年後の1955年、ケロイド治療のため米国に渡った広島出身の25人の女性のことで、笹森さんもメンバーの一人として手術を受けました。

学生たちは事前に米国、ドイツでの核兵器の開発について学び、原爆投下後の出来事についての文献にあたり、放射能の生物学的な影響を知るためABCC(原爆傷害調査委員会)が行った研究についても学んでいました。そして、グローバルヒバクシャの概念についても考えてきました。原爆投下後にそこで何が起きたのかを知るために、同じ講義の中で、「原爆の図」の丸木美術館へのバーチャルツアーも行いました。
被爆者の視点から放射能の歴史を考えるという講義内容に進むこのタイミングで、笹森さんから直接被爆証言を聞くことは、とても貴重で大切なことでした。

あまりの火傷で私だとわかってもらえませんでした

笹森さんは、20分の証言を、故郷広島に原爆が落とされる前にどのような生活を送っていたのか、、、そこから始めました。戦争が日に日に激化していった様子、そして笹森さんを含めた学生たちが、起こり得る大規模火災に備えて建物を壊す作業に従事させられていたことなど。そして、8月6日原爆が投下された日のことに続きました。その日、笹森さんは一機の飛行機が飛んできたことを覚えています。でもその後すぐに意識を失ってしまいました。怪我や火傷がひどく、何日も家に帰れませんでした。「数日後、両親がやっと私を見つけてくれたのですが、あまりの火傷で私だとわかってもらえませんでした」と、当時を思い出しながら話してくれました。それからの数か月間は、笹森さんにとっては本当に辛い日々でした。親に認識してもらえないくらい火傷をしているにもかかわらず、つける薬もなく、受けられる治療などなかったのです。戦後の生活はどのようなものかと聞かれ、戦後の数年の笹森さんと家族のことを話してくれました。家族全員が幸運にも原爆が投下されながらも生き残ったこと、お父さんが一生懸命に働いて広島で牡蠣の仕事を始めたことなど。
そして笹森さんの話は、同じくひどい火傷を負った少女たちとともに米国に渡り、手術を受けたことにも及びました。その時に感じた人の優しさとサポートが、「人間は根本的に優しくて手を差し伸べ合う存在」という笹森さんの強い信念に繋がっています。

米国に対して怒りの感情は?

質問に答えながら笹森さんは、問題を解決する手段として戦争を容認しないことが大切であると繰り返していました。そして「一度戦争が始まってしまえば、被害にあうのは国民。だから戦争をしないように政府に訴えていかないといけない」とも話してくれました。米国に対して怒りの感情はないのかと聞かれた時、「ありません。やめるべきは戦争。人間は親切なのです。でも、一度戦争が始まってしまえば、国民が苦しむことは避けられないのです」と、力強く学生たちに語りかけました。

ゆっくりと力強く「優しい人間も戦争になると犠牲になる」と話す笹森さん

 

笹森さんと原爆乙女について、広島のメディアにも掲載されています。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27188

文:畠山澄子、渡辺里香

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