7.おりづるプロジェクト・オンライン

ドイツの財団と考える「過去との向き合い方」

11月24日、ドイツのベーグホフ財団主催で、第49回のオンライン証言会が開催され、15名が参加しました。

今回の証言者・服部道子さんは現在92歳、広島に原爆が投下された時は10代でした。1941年、船員だったお父様の仕事の都合で、家族とともに広島に移り住みました。服部さん自身は、学校に通いながら、軍需工場で軍服を縫い、線路を掃除し、その後、病院で看護師になるための訓練を受けました。「食料は不足していましたが、すべてが悪いわけではありません」と服部さん。オリンピック選手からスプリントの走り方を教わったことを楽しい思い出として覚えているそうです。彼女は陽気な若い女性でした。広島は開戦以来、空襲がない安全な場所と思われていましたが、それは希望的観測でした。軍病院で看護師として働き始めた服部さんが出勤した8月6日の空は、真っ青だったそうです。バケツを手に軍曹の後をついて消火器の水を取りに行ったその時、失明したかと思うほどの閃光と、鼓膜が破れるほどの大音響に襲われました。心の中で、「これで終わり、さようなら」と思ったと言います。しばらく意識を失っていましたが、しばらくすると意識を取り戻しました。しかし、彼女が「見たものは、この世のものとは思えないものでした」。 広島は赤い光で焼かれ、まるで怒りの炎の海のようだったそうです。肩や腕から皮膚がはがれ、手首から皮膚が溶けて、腕を持って歩いている人もいました。「不気味だった」と70年以上前のその日のことを静かに思い出しながら服部さんは言いました。看護師として、続々とやってくる負傷者の手当てを始めたましたが、消毒液くらいしか手元にはなく、薬もないので、火傷にはバターを使いました。

証言する服部道子さんと、通訳のフラウケ・アーントさん

寝る場所のない者は、地面に横たわり、傷口は泥や土、血や膿と混ざり合い、悲惨な状況でした。みんな喉が渇いて、水をくれと叫んでいました。服部さんには忘れられない思い出が2つあります。1つ目は、全身をやけどした小さな男の子です。この男の子が服部さんの足を握りしめて言いました。「日本は戦争に勝つんでしょう?負けないよね?お母さんは亡くなったんだけど、生きているお父さんに見つけてもらえるかな?」と。服部さんは、火傷のために見分けがつかないかもしれない男の子のベッドの横に張り紙をしました。そして、男の子が「水が欲しい」と言うので、湿らせたコットンで唇を湿らせました。その子は「おいしい」と。服部さんは、少しは慰めになったかと思いました。しかし、次に行った時、その男の子は亡くなっていました。「安らかな顔をしていた」そうです。

2つ目の思い出は、ある母子です。母親は赤ん坊を背負って、病院に駆け込んできました。「すみません、どうかこの子を助けてください」と。服部さんは背中の子どもを受け取ろうとした時、びっくりして「頭がない」と叫んでしまいました。母親は泣き叫び、倒れ、即座に息を引き取りました。服部さんはただただ祈るしかありませんでした。そして、その場で叫んでしまったことをとても悔やみました。今でも目を閉じると、この男の子とお母さんの姿が目に浮かぶといいます。

その後も看護師として働き続けましたが、誰を助けるか、誰を助けないかの判断は難しく、「地位の高い人、助かる可能性の高い人を助けなさい」と指導されました。9月に病院は閉鎖されたので、その後東京近郊に居を構え、子どもも生まれました。それからは仕事に専念し、頑張ってきました。死んだ方がましだと思うこともしばしばありましたが、孫やひ孫に囲まれて、今は最高に幸せな日々を過ごしています。「原爆は怖いものです。原爆は人間として死ぬことも生きることも許しません。人類を滅亡させる悪の兵器です。暴風と放射線が大量死を引き起こすのです。この過ちを繰り返してはいけません。」と述べる彼女は、この日のことを一瞬たりとも忘れたことはありません。「この体験を風化させてはならない。戦争に反対し、核兵器廃絶を唱えなければならない」そして「命の大切さ、平和への権利を忘れてはならない。」と力強く訴えました。「平和に暮らせる世界を一緒に作っていきましょう。具体的な出口もなく、安全な軍縮の方法もないまま、核兵器だらけの世界を後世に残すのかと思うと、怒りがこみ上げてきます。私はそれを恥ずかしく思っています」。戦争とはどういうものか、心を開き、自分の身に起こったことを語り続けることが、平和な世界をつくることにつながると信じているそうです。

 

服部さんの言葉に、会場から大きな感動と感謝の声が上がりました。参加者の一人、オリバー・ウィルス(Oliver Wils)さんは、これからの紛争を建設的に解決していくために、一緒に解決策を考えていくことが大切だと述べました。また、同財団のウリ・ジャガー(Uli Jager)さんからの「こんなに細かく辛い記憶を説明する力はどこにあるのか」という質問に対して、「多くの人が亡くなったが、奇跡的に生き延び、体調不良(6回手術)に悩まされながらも、しゃべれなくなった人たちのために、一人でも多くの人に伝えることが目標」と答えていました。服部さんはアウシュビッツ・ビルケナウも訪れたことがあるそうで、とても感動したそうです。日本も加害国であるからこそ、どうすれば戦争を防げるかを話し、考えることが大切で、信念が力を発揮すると信じているそうです。

服部さんは、時間を割いて自分の話を聞いてくれた聴衆に感謝しました。「世界の紛争を解決し、環境を守るために、私たちは協力し合わなければならない」と語り、「孫やひ孫の世代に平和な世界が訪れることを心から願っている」と締めくくりました。

文:ローラ・ガスパール

編集:渡辺里香

 

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