ピースボートの「おりづるプロジェクト・オンライン」の5回目の証言会には、ラテンアメリカのロータリーフェローが70名集まりました。メインで受け入れてくれたのは、コロンビアのマリア・ペレスさん。ピースボートで今まで多くの被爆者がラテンアメリカを訪ねて、多くの人たちと交流してきたこと、そこから核兵器をなくそうという意識が高まったことなどを話しました。参加者はコロンビアの他にペルー、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、日本、ウルグアイから集まりました。
ラテンアメリカで語り始めた田中さん
今回証言頂いた田中稔子さんは、12年前の2008年におりづるプロジェクトでラテンアメリカを訪ね、初めて被爆証言をしました。今回日本語からスペイン語への通訳を務めてくれたグティエレス実さんは、12年前に稔子さんの初めての証言を通訳したグティエレス一郎さんの弟という繋がりには、一同が感動しました。
当時、田中さんは70歳になっていましたが、それまでは被爆証言をすることが出来ませんでした。被爆当時のあまりにも悲惨な出来事を思い出したくない、ましてや話したところで理解されないと話す勇気が持てなかったのだそうです。その後、ピースボートに乗船し、ある人に「被爆体験を話すことは、生き残ったあなたの責任だ」と言われ、その言葉が心に響き、今もその言葉を胸に被爆証言を行い続けています。
登校中に被爆した田中さんは、親から一眼で娘とわかってもらえないほど姿が変わっていました。そしてその晩から高熱を出しました。家の前をゆく人たちは火傷でただれた幽霊のようであったし、目立つ傷がない人が突然倒れて亡くなっていくなど、街全体が絶望に満ちていました。それでも、幼く純粋な田中さんは、ボロボロになった自宅の天井の隙間から見えた青空に「明日への希望」を見たと言います。
改めて静かに若者たちに語りかけました。
「戦争は理不尽で残酷な結果しかうみません。捕虜のアメリカ兵士も自国が落とした原爆によって亡くなりました。その中には19歳の少年もいました。
今は私の火傷の後も徐々に治っていますが、原爆投下によってできた心の傷や放射能の影響は無くなるものではありません。」と。
「原爆投下に対する怒りの感情に乗っ取られ、復讐をするのではなく、どこかで復讐の連鎖を断ち切る必要があります。そして、民族間や国境を超えて友人を作ることにより、国家間の紛争や戦争が起きそうになったとき、国民が躊躇すると信じています。」と話して、原爆投下の決断を下したトルーマン元大統領の孫・ダニエルさんと、原爆を投下した航空機の搭乗技師の孫・ビーザーさんとも友情を育んでいることを話しました。
参加者からは、幼少期はどのように過ごしていたか、という質問
「原爆投下前、当時の日本には余裕があり、食糧に困っていないという時代でした。記念日には家族みんなで記念写真を撮りに行ったり、映画を見ていました。5歳の時、戦争が始まり状況は変わりました。最前線にいる兵隊さん達に食糧を送っていたので、食糧難に見舞われ、近所同士仲良くしながらもスパイをするという暗い社会になっていきました。強制労働を虐げられ、給料はないという状況。戦争は国民をそれだけ追い込んでいきます。
被爆して、将来の夢や希望を断たれて亡くなった同級生を見て、自身が生き残ったことに希望を持てませんでした。」という田中さんの答えに、今の自分たちの生活と考え合わせた参加者が多かったのではないでしょうか。
少し間のあった後、田中さんは続けました。
核兵器禁止条約をサポートしてください。世界で一番核兵器を保有しているアメリカでも、若者の70%が核兵器は要らないと言っています。声を上げていきましょう。これから一緒に平和な世界を作り上げていきましょう!
参加者からは自然に拍手と感謝を伝えるメッセージがあふれました。
文・徳永涼子
編集・渡辺里香