7.おりづるプロジェクト・オンライン

「アメリカを憎む」ことから解放されるまで

11月2日に第48回目のオンライン証言会を行いました。
今回は米国、ノースカロライナ大学の教授と学生さんと共に証言会を行いました。

4月24日に第22回目の証言を行った時と同様に、今回もレバノン出身の同大学学生クリステル・バラカットさんが主催し、マリア・アナスタシウ教授が始まりの言葉を添えてくださいました。

一人でも多くの証言者の話を米国の学生に届けたい、と尽力してくれているクリステル・バラカットさん

マリア・アナスタシウ教授は人権問題を考える同大学の取り組みの一環として今回の企画があると説明

証言をしてくださったのは、伊藤正雄さんです。
原爆投下時より、原爆の影響を受けて生きてきた被爆後の時間の方が精神的にも肉体的にも苦しかったと語ってくださいました。

原爆投下時

正雄さんは4歳の時に広島で被爆しました。
当時の記憶をあまり覚えていないとおっしゃっていましたが、聞いていた私たちの頭には、当時の様子が自然と思い浮かぶ語りでした。
原爆投下時、正雄さんは爆心地から3.2km離れた、家の前で三輪車に乗っていました。
ピカっと光り、爆風に飛ばされた正雄さんは家へ急いで入りました。
すると、お母さんが靴を履いたまま部屋へ入るように言いました。
建物自体は無事でしたが、爆風によって窓ガラスが家の中に飛び散っていたのです。

住んでいた地域は“黒い雨”が一番多く降った地域でしたが、正雄さんと家にいたお母さんは防空壕へと避難していたので、幸い濡れることはなかったのです。
しかし、お父さんと10歳のお姉さん、12歳のお兄さんは肉体的に大きな被害を受けました。
お父さんは救助隊として爆心地の方へ出勤し、その際に放射線の影響を受けました。その後、放射線による病を患うことになります。
爆心地近くのお母さんの実家にいたお姉さんは、今も遺骨が見つかっていません。
何もかも焼け果てており、何も見つけることができなかったと正雄さんは語ります。
傷だらけになったお兄さんをお父さんが連れて家へ帰ってきました。
しかし、その後寝込み、間もなく亡くなりました。
正雄さんの両親は、トラウマにならないように正雄さんとお兄さんの部屋を分けてくれたそうです。

忘れられない記憶

正雄さんには、忘れられないことがあります。
家が広かったので、原爆投下時多くの傷ついた人たちが逃げてきて、休ませてあげていました。
しかし、その人たちが次々と亡くなっていき、8月で暑かったために遺体も腐敗していき、匂いが漂っていたことを覚えています。
また、亡くなった人たちを近くの公園で、10人くらい積み上げて火葬しました。

4歳の正雄少年の目と鼻にこびりついた記憶

この光景が一週間ほど続いたそうです。
正雄さんは「その時の光景は忘れられません。普段は忘れているけれど、証言をする時など光景や匂いが蘇ってきます。」と語られました。

原爆投下後の人生

毎年8月になると両親と墓参りをして、お姉さんが亡くなったと思われるところに花を添えていましたが、両親は原爆のことになると口を塞いでいました。
お父さんは放射線の影響を受け、原爆ぶらぶら病になり半年周期で入退院を繰り返すようになりました。
家業に専念することができなくなった父に代わり、正雄さんも学校へ行く前に仕事の手伝いをすることになりました。しかし、10年後には家業が倒産し、勉強机さえも差し押さえられてしまい、夜逃げをしなければなりませんでした。
15歳の正雄さんは学校をやめ、家計を助けるために住み込みで働きました。

ところが、過労によって肺結核になり入院をすることになりました。
入院生活は今までの生活と比べ、天国のような生活だったと正雄さんは語ります。
なぜかというと、結核という病気は安静と栄養が何よりの薬であり、入院中はいくらでも睡眠が取れ、3食食べることができました。
一方で、入院中は肉体的にはとても楽でしたが時間が多くなったため、精神的に悩むことが多くなりました。
同級生が楽しく学校生活を送っている姿になぜ自分はこのような目に遭わなければならないのかと悩みました。

聖書との出会い

当時広島では仏教思想が広がっており、退院後は出家しようかと悩んでいました。
そんな時に米国の団体から、結核の新薬と人生が変わった一冊の本が送られてきました。

その本とは日英対訳の聖書でした。没頭して読みました。
しかし、
「汝の敵を愛せよ」
この部分を読んだときに、聖書を壁に向けて投げつけました。
敵とは米国のことであり許すことなど出来ないと思ったからです。
しかし退院後に親戚の家で休んでいた時、なぜか近所にあった小さな教会へ足が吸い込まれるように感じて通い始めました。
聖書を投げるほどに恨んでいたのに、教会へ足が向いた理由は正雄さん自身にもわかりませんでした。

ピースボートとの出会い

定年までサラリーマンとして働き退職した正雄さんは、牧師と今後の話をしていた時に、「伊藤さんは被爆者なんだよね そんなに多くの選択肢はないと思うよ」と言われ、資料館や平和公園のガイドのパンフレットなどを渡してくれました。
資料館へ行くと、スタッフから被爆証言をしてみたらどうかと言われましたが、4歳の時の記憶しかなく知ったかぶりをして話すことはできないと思い断りました。

その後、資料館と平和公園のガイドをするようになり、核兵器の怖さを知り、核兵器の廃止を求める運動を始めました。それがピースボートに出会うきっかけとなり、被爆70周年の記念の年におりづるプロジェクトで世界20都市以上を周りました。

資料館では、たくさんの外国人訪問者をガイドしています

これらの活動経験から、これからは広島だけでなく世界中の人たちに対して核兵器廃絶へ向けた活動をしなければいけないと正雄さんは思うようになりました。

その後、いくつかの質問に正雄さんは答えられました。
ここでは印象に残った質問を紹介したいと思います。

「子供の頃の記憶について話されていましたが、どうやってその記憶から回復したのですか?」という質問に対して、「アメリカを憎いという思いはなかなか無くならず、資料館でボランティアをしていた時も許せなかったです。慰霊碑に記されている言葉も最初はピンときませんでした。ここに眠っている人は原爆の犠牲者であり、悔しい、敵討ちをしてやるからね、だから眠ってね」という気持ちだったと答えました。

最初は米国を憎み、記念碑の言葉さえも響きませんでした

しかし、岩国基地の軍人の方が資料館を訪れ、資料館を出た後に涙を流しながら帰る姿を見て、米国人がみんな悪い人たちではないと思うようになりました。
そして、彼らも苦しい思いをしている、一緒にこのような悲劇がもう2度とないように取り組んでいくべきと思うようになりました。
その時、“汝のために敵を愛せよ”の意味を理解できるようになったと言います。
お互いに違いを認め合って、その中でどうしていくべきか話し合うことが大事であると言います。

最後に正雄さんは、戦争をするときはみんな鬼になってしまうもので、
若い人たちが自分たちは主人公だと思って、世界へ目を向けてほしいとおっしゃいました。
無関心が民主主義や平和を滅ぼしますという言葉にまさにそうだと、心に残った証言会でした。

会終了後、「広島に来てくれたら案内しますよ」と主催者に感謝する伊藤さん

文: 執柄詩衣莉
編集:渡辺里香

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