第1回おりづるプロジェクトに参加され、ブラジル在住の森田さんと渡辺さん、第3回に参加されて同じくブラジル在住の盆子原さんの活躍が大きくメディアに取り上げられています。
東京のピースボートセンターを本文してくださった時の森田さん(右下)と渡辺さん(左下)
大きな戦争を直接経験したことのないブラジルでは、戦争の現実を子どもに伝えられる大人自体が貴重な存在なのだそうです。
証言を直接きいた学生、母親、教師のそれぞれの言葉が引用されているのが印象的です。
特に、子どもが悲惨な話を聞くことについて親が「残酷で恐ろしい話だが、子どもに聞かせてよかったと思う。知ることが二度と繰り返さないことにつながるはずだから」と言っていることは、おりづるプロジェクトとして世界の様々な若者に話しをするときの参考になります。
また、「インターネットで情報があふれる時代だが、情報を得ることと本当に理解することは違う。犠牲者を示す数字にそれぞれ命があったことを感じてもらえれば」との教師のコメントはその通りだと思います。
被爆、ブラジルで語り継ぐ 戦争体験遠い国 移民、学校で講演
2015年12月22日16時30分
南米ブラジルで、原爆の惨状を語り継ぐ人たちがいる。戦後、日本から移民として渡った被爆者たちだ。大きな戦争を直接経験したことのないブラジルでは、戦争の現実を子どもに伝えられる大人自体が貴重な存在だ。原爆投下から70年の今年、これまで以上に講演依頼が相次いでいる。
「暑い夏の朝だった。午前8時15ログイン前の続き分、突然、ピカッと光って、ドーンと大きな音がした」。サンパウロにある私立中学校の特別授業。ブラジル被爆者平和協会の森田隆会長(91)がポルトガル語で話し始めると、会場が静まり返った。生徒は約50人。被爆者から直接、体験を聞くのはこれが初めてだ。
「みんな全身にやけどを負って、水を求めながら死んでいった」。原爆投下直後の様子が生々しく語られると、生徒たちは目に涙を浮かべたり、悲しそうな表情をしたり。森田さんは「70年前の広島で本当に起きた出来事。二度と繰り返してほしくない。平和が一番です」と締めくくった。
授業の最後には生徒から質問も出た。「原爆を落とした米国に復讐(ふくしゅう)したいと思いませんか」――。森田さんはほほ笑みながらゆっくりと答えた。「悪いのは戦争。仕返しは考えない。また戦争が起きたら、世界が滅びてしまう」
戦時中、憲兵として広島市に赴任していた森田さんは、爆心地から1・5キロの場所で被爆。大やけどを負ったが助かり、終戦の11年後、移民としてブラジルに渡った。同国在住の被爆者に結束を呼びかけ、協会を立ち上げたのは1984年。在外被爆者への援助を日本政府に求める一方、中学校や高校で被爆体験を語る活動を続けてきた。
もともと森田さんが一人で始めたが、2003年ごろから、広島で被爆した盆子原(ぼんこはら)国彦さん(75)と渡辺淳子さん(73)が一緒に活動を支えている。活動を知った学校側からの依頼で3人の講演回数は年々増え続け、原爆投下から70年の節目となる今年は、12月までに約40件の依頼があった。
■「命ある限り続ける」
ブラジルは第2次世界大戦で連合国側についたが、戦闘に参加したことはほとんどなく、敵から国内への目立った攻撃もなかった。20世紀以降、外国と戦火を交えた歴史が少ないことから、大人が子どもに戦争体験を話して聞かせる活動そのものが珍しい。
授業で3人の被爆体験を聞いた中学生ハファエラ・ガベウさん(14)は「やけどで腕から皮膚が垂れ下がっていたという部分が心に残った。死んだり傷ついたりした人の苦しみが伝わってきた」と振り返った。
生徒の母親の一人ミレニ・シャフェルマンさん(51)は講演中、涙で目を真っ赤にして聴き入った。「残酷で恐ろしい話だが、子どもに聞かせてよかったと思う。知ることが二度と繰り返さないことにつながるはずだから」
授業を企画した教師のアンドレ・ムヘルさん(41)は「インターネットで情報があふれる時代だが、情報を得ることと本当に理解することは違う。犠牲者を示す数字にそれぞれ命があったことを感じてもらえれば」と話す。
サンパウロ市は今年6月、平和活動への功績から森田さんに名誉市民賞を授与した。森田さんは言う。「90歳を過ぎてもこうして生かされているのは、若い人に被爆体験を語り継ぐため。命のある限り続けたいと思います」(サンパウロ=田村剛)
ピースボート 渡辺里香
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