7.おりづるプロジェクト・オンライン

「語る勇気と聞く勇気、、、それが世界を変える」とオーストラリアの高校生に

2021年6月2日、29回目と30回目のオンライン証言会は、オーストラリア・タスマニア島・ラトローブ高校のジェン・ペリー(Jen Perry)先生主催で開かれました。2クラス合わせて約120名の生徒が参加しました。

ジェン先生は、私たちが生で被爆証言を聞くことのできる最後の世代であること、この貴重な機会に感謝すると話して授業を始めました。

今回証言して下さったのは坂下紀子さん。広島の爆心地から1.4kmの祖母の家で被爆され、当時2歳でした。(坂下さんは、当時のことを自分で記憶しているわけではありませんが、おばあ様、お母様をはじめとした周りの大人たちから繰り返し聞いたことで被爆当時のことを自分の一人称の記憶のように吸収し、お話されます。この報告はその坂下さんの語りに合わせて記述しています。)

コンピューターを通してオーストラリアの高校生とつながる坂下さん

真夏の火の海と助けを求める声

1945年8月6日午前8時15分。突然の物凄い爆音と爆風で、広島の景色は一変しました。家屋はがれきの山となり、熱線で周囲が火の海になりました。「助けてくれ」、「逃げろ」と悲鳴や怒号が聞こえる中を川へ向かって泣きながら逃げました、、、そんな描写的な語り口で証言が始まりました。坂下さんのおばあ様が「許してつかあさい、堪忍してつかあさい」と助けを求める声に向かって土下座して謝り、お母様はがれきの下から伸びる近所のおばさんの手を振り払うように坂下さんを抱き上げて逃げた、という場面では、高校生たちも思わず顔をしかめていました。

さらにその後が衝撃的でした。投下直後の大地の温度は一時3,000度に達したので、そこにいた人間は全身が真っ黒こげ、傷だらけ、血だらけになっていました。だから、生きているのか死んでいるのかわからない人がごろごろ横たわっていたというのです。墨になったがれきなのか、人なのかさえもわからなかった、と。そして、街は燃え続け、夕焼けのように真っ赤な空が三日三晩続きました。その中を子どもたちを連れて逃げ続けたお母様は「真っ赤な空の怖さは忘れられない」と話していたと坂下さんは声に力を込めました。

「私はあの時鬼になった。誰も助けてあげることができなかった」坂下さんのお母様は死ぬまで言い続けていたそうです。またこうも言っていたそうです。「経験を思い出すことも怖いが、大勢の人がそばでどんどん亡くなっていくのをただ茫然と見ているだけで、怖い、可哀そうと思えなくなっていく自分が一番怖かった」と。

坂下さんのお母様の言葉から助けられなかった苦しみ、悲しみが痛切に伝わってきました。

母の認知症とかんなの花

お母様は、その後原爆の記憶と共に生き続け、94歳で亡くなりました。亡くなる数年前からかんなの花を見るとぶるぶる震え怖がるようになったのだそうです。それは、原爆の日の朝、赤いかんなの花が庭に咲いていたので、あの日の炎を思い出してしまうからでした。亡くなる少し前にお母様がかんなの花をじっと見ている姿を見て、坂下さんは花を愛するお母様に戻ったことを喜びました。「認知症で私を誰だかわからなくなったことよりも、母があの日から解放されたことを嬉しく思いました。」坂下さんの言葉には一層気持ちが込められていました。

お話の最後は、この1年半世界中が苦しんでいる感染症のことに触れ、「放射能やコロナなど目に見えない敵との闘いですが、目に見える形できっといい日が来ると信じています。力を合わせて行きましょう」と力強い声で訴え、参加者みんなを励ましてくださいました。

目に見えない恐怖との闘い

坂下さんのお話の後「被爆した経験はその後の人生にどのような影響を与えましたか?」と学生たちから質問がありました。坂下さんは学生たちから質問を受けたことを喜び、答えました。

2歳という幼少期に被爆した坂下さんは、物心ついたときから被爆者として生きてきました。被爆者はなまけもの、体がだるくて集中力がないという差別を受けたり、奇形児を生むことを心配され就職や結婚が難しいことがありました。お母様はあの日娘を被爆させたことをとても後悔していたそうです。そのため、坂下さんは平気なふりをしてお母様を元気付けるために必死に気丈な振りをする青春時代を過ごしました。「成人すると被爆者であることを隠し、広島から東京に出て、フリーランスの編集者として本名を伏せて働いてきました」という言葉と表情から、坂下さんの苦労が伝わってきました。
続けて、一見健康そうに見えても放射能は体内に残っており、何十年もたってから原爆症が出たり、亡くなったりする人がいること、自分自身もがんを患ったことを話されました。「被爆するといつ原爆症を発症するかわかりません。被爆者は目に見えない恐怖と死ぬまで闘っています。被爆者の抱える恐怖は、年をとっても死ぬまで終わりません」

証言を語る勇気と聞く勇気

最後に坂下さんはにこやかに、しかし声に力を込めて学生たちに語りかけました。

「話す勇気と聞く勇気、それが世界を変えます」と語る坂下紀子さん

「あの日尊厳なく亡くなっていった大勢の人のために、8年前ピースボートで初めて被爆者として証言しました。被爆者としての人生に向き合って初めて、被爆証言を話す側にも勇気がいるが、同時に聞く側にも勇気が必要だと気付きました。私たちはこの経験が忘れられてしまうことを一番恐れています。今日この場で証言を聞いた、あなたたちの勇気に感謝します。そしてこの勇気が世界を変えると信じています」

会の最後、被爆経験を話した坂下さんの顔にも、聞いた生徒たちの顔にも柔らかい笑顔が広がっていました。参加者は原爆の経験に向き合い平和に向けた思いを共有したことで、それぞれの立場は違っても同じ方向を向いているように感じられました。終了後の坂下さんはとても清々しい表情をされていました。勇気を持って証言して下さる力強い姿と責任を果たした後の穏やかな表情にパワーを感じました。原爆投下の事実に向き合い経験を未来に伝えていく後継者として、私たち世代の責任を改めて実感しました。向き合う勇気、聞く勇気、伝える勇気を持って、今後もこの活動を続けていきたいと思います。

文:安西智
編集:渡辺里香

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