ちょうど1年後の2021年1月22日、核兵器禁止条約(TPNW)が発効しました。それを記念して、ICANデンマークの「オーフス戦争・テロ反対協会」(日本語仮訳)と共同で第52回被爆者オンライン証言を開催しました。デンマークは54カ国目です。
まず、同協会のヘルゲ・ラッツァー(Helge Ratzer)さんが、核拡散防止条約(NPT)を含む様々な軍事・核条約の現状と制限について紹介しました。ICANの歴史と核兵器禁止条約(TPNW)に至るまでの活動を紹介し、ヘルゲさんは、1970年代から強い反核運動があり、デンマーク国民の8割近くが核兵器の全面廃絶を支持しているにもかかわらず、デンマーク議会を説得して条約を批准することが困難だったことについても触れました。
ピースボートの活動や被爆者の証言プロジェクトについての紹介の後、腹話術師として、特に子どもや若者と平和や人生全般に関する様々なテーマについて話し合う小谷孝子さんの証言に、参加者は心を動かされました。時差の関係で、小谷さんはこのイベントに生で参加することはできませんでしたが、事前録画の被爆証言で、小谷さんの感動的な話を、相棒のあっちゃん(腹話術の人形)との対話を通じて聞くことができました。
小谷さんが6歳のときに広島に原爆が投下されました。実家が倒壊し、小谷さん自身も一部が埋もれましたが、母親が何とか助け出してくれました。母親と祖母、3人の兄弟は助かったのですが、数日後、3歳の弟が火傷と爆風で亡くなりました。
戦前にお父さんを亡くした小谷さんは、母が焼け野原で食料や薬を探したり、広島からフェリーで1時間の似島に住む多くの戦災孤児の世話をしている間、兄弟や祖母の面倒をみたことを語りました。母親が家にいてくれればという思いは強かったのですが、この経験は小谷さんに無私と寛容を教えてくれました。原爆投下から6年後、母親は白血病でこの世を去り、小谷さん自身も孤児となりました。しかし、兄弟姉妹や祖母、友人たちが彼女を助けてくれ、彼女はすぐに、自分は一人ではないことを知ったのです。
飛行機や爆弾におびえる毎日から解放され、小谷さんは幼稚園の先生になる夢を持つようになりました。「戦争がなければ、人は夢を持つことができる」そう強く思い、保育の専門学校に入り、子どもたちと触れ合うために腹話術の練習を始めたのです。
大けがや病気をしたわけでもない小谷さんには、当初、戦争体験を語る資格はないと思っていました。また、生き残ったことへの罪悪感から、自分の体験を話すことにも消極的でした。しかし、腹話術の師匠やお姉さんから、「あなたには語るべき物語があり、その方法がある」と説得されました。そこで小谷さんは、あっちゃんのサポートを受けながら、自分や家族だけでなく、生き残った人たち、何らかの理由で出来事を語ることができなかった人たちのために、彼らの物語を風化させないために証言を始めたのです。
小谷さんは証言の中で、戦争における日本の役割、そして日本がアジアの他の地域で侵略者としていかに苦しみと死に対して責任があったかということにも触れました。また、日本国憲法第9条が戦争を放棄していること、そしてその条文が決して改正されるべきではないと強く感じていることを述べました。
戦後70年の年、小谷さんとあっちゃんは初めてピースボートの証言の航海に参加しました。多くの寄港地で、広島・長崎で起こったことをアメリカのせいにしているのかと聞かれたそうです。それに対し、「人を責めても何にもならないのです。戦争がなくなり、核兵器が廃絶されない限り、真の平和は訪れないのです。」と答えたことを話しました。最後に小谷さんは、平和の松明を次世代に引き継ぎ、「平和の種を蒔こう」と呼びかけました。
その後、参加者と主催者は、被爆者の証言の保存の緊急性について議論し、ICANデンマークのハッセ・シュナイデルマンさん(Hasse Schneidermann)は、より多くの若者が核兵器反対の運動に参加することの重要性を強調しました。
このセッションを実現させたICANデンマークと「オーフス戦争・テロ反対協会」(Århus mod Krig og Terror)に感謝します。また、コーディネートをしてくださったヘルゲ・ラッツァーさん、平和のメッセージを伝えてくださった小谷孝子さん、あっちゃん、ありがとうございました。今後も、オンラインや次回ピースボートがデンマークを訪れた際に、協力できることを楽しみにしています。
文:ルイーズ・ソレンセン
翻訳・編集 渡辺里香