39年前の4月26日に起こったチョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故*。
「史上最悪」と言われるその事故は、今もまだ多くの人が影響をうけており決して終わった事故ではないこと、そして同じ放射能被害を受けた被爆者は原発事故をどのように思っているのかを共有する企画を実施しました。
*事故当時は旧ソ連支配だったためロシア語読みの「チェルノブイリ」と呼ばれていましたが、本企画ではウクライナ語に合わせて「チョルノービリ」と記載しています。

多くの方が会場に集いました
まずはチョルノービリ(チェルノブイリ)原発で起こった事故の概要について説明します。
事故は稼働していた4つの原子炉のうち4号炉で発生しました。
事故の発生原因や、事故を目撃した人が「夜中だったにも拘わらず突然夜空に花火が打ちあがったかのような明るさだった」と証言していたこと、事故によって放出された放射能の量は広島長崎に投下された原爆の100倍以上というとんでもない数値でした。
当時はほとんどの人が放射能の危険性を知ることなく、通常の火災として消火活動にあたっていました。
しかし次第に消防隊員に、頭痛や吐き気などの急性被ばく症状が現れ始め、高濃度の放射能を浴びた消防隊員自体が「放射性物質」として管理される対象となりました。
また原発から30Km圏内に住む市民が避難勧告が出されたのは事故発生から24時間以上が経ってからでした。
そして原発事故が発生したのはチョルノービリ原発だけではありません。
歴史的に危険度の高かったスリーマイル島原発(米国)、福島原発(日本)も紹介しました。

関わった裁判について話す伊藤さん
そして1956年、原爆が落とされた日本が原子力発電を受け入れやすいように日本各地で「原子力平和利用博覧会」が開催され、多くの人が原子力による可能性に歓喜しました。
当時15歳だった被爆者の伊藤正雄さんもまた「戦争ですべてを失った日本が復興するためにはこのエネルギーしかない」と原発推進派だったというエピソードを話してくれました。
しかし原発事故や身近な人が癌で亡くなったことをきっかけに、放射能の怖さを知ります。そして四国にある伊方原発の運転差し止めを求める裁判の原告側として関わっていました。
そして倉守照美さんは、福島原発事故によって避難してきた人が差別をされたという話を聞いて「原爆で被爆した人も差別をされた。その時に放射能の影響が正しく伝わっていれば、原発事故で避難した人が差別されることは無かったんじゃないかと思う」と胸を痛めたことを伝えました。

企画後、質問に来た方と話す倉守さん
また今回は、東京都の夢の島にある「第五福竜丸展示館」より写真パネルをお借りして、原発事故に関する写真展を開催しました。
多くの人が足を止め、公共スペースの壁に展示された写真やキャプションを読んでいる姿がありました。
原発事故は時が経つにつれて少しずつ人々の記憶から薄れていき、まるで問題が解決したかのような錯覚に陥りますが、まだまだ事故や放射能の問題は終わっていません。
影響を受けている人がいる以上、「忘れない」という言葉を使うにはまだ早いのかもしれません。
この企画が、より詳しく事故のことを調べたり、当時の様子を題材にした書籍や映画などを観たりするきっかけになればと願っています。
(文:橋本舞)